スプラッシュマウンテンがオープンした当時の僕が、自分自身のキャストとしての能力をどう捉えていたのかというと、
「才能がないから大した奴じゃない」
それが実際の評価だろう、と考えていた。
前にも書いたが、テーマパークには眩しいくらいの才能を備えたキャストが、まれにいる。
まるでキャストになるために生まれてきたような、実に素晴らしい対応をする人だ。どんな時も笑顔を絶やさない。挨拶が晴れ晴れしい。絶対に手を抜かない。上司から絶大な信頼を得ている。その他、その他……。
たまにそんな人に出会ってしまうと、この職場に自分の居場所がなくなってしまったような気がしてくる、それくらい素晴らしい人達だ。
また、彼らは性格がいい。決して美男美女というわけでもない。また特別な訓練を受けたというわけでもない(たぶん)。
つまり、持って生まれた才能なのだ。
彼らと同じ目線に立って勤務してみると、そのすごさが分かる。同じ業務を行うにしても、やはり自分とは明らかに違う。
だから、「才能」という言葉を使うしか表現のしようがない。
目次
スピリット受賞者こそ、キャストの才能を示すバロメーターである
僕はずっと、この才能の正体は一体何だろう、と考えてきた。
「才能のある人」とは一体どんな人か。
ずっと言葉にできなかったんだけど、最近この一連の記事を書いていて、ふと思い出した。
「スピリットを受賞する人」だ。
スピリットとは「スピリット・オブ・東京ディズニーランド(当時)」と呼ばれる賞である。(今でも「スピリット・オブ・東京ディズニーリゾート」として続いているはずだ)
ちょうどこの頃、1992年から1993年にかけて始まった、キャスト達が自分達の中から最も素晴らしいキャストを一人選び、投票するというイベントだ。
各ロケーション(部署)から、たった一人が選出される。
選ばれると、ネームタグに取り付ける特別なシルバーのピンバッジがもらえるのだ。そして特別なパーティーへ招待される。ちなみに僕は受賞したことがないし、このパーティーも行ったことがない。
こういう賞は、大体誰が獲得するか予想がつくものだ。
できたてのアトラクション、スプラッシュでも、お互いに顔が知れるようになってきたばかりだったが、誰に票が集まるか目星がついてきた。
この賞はキャスト達全員が選ぶため、普段から立派な行動をしているとか、人気や人望がある、とても優秀である、等の理由があれば非常に有利だ。
人より秀でたところがある人。普段の勤務ぶりがずば抜けて素晴らしい人なら、誰もが投票する時に思い浮かべるし、自然と票が集まるだろう。
結果、スプラッシュでは、ある女性キャストが選ばれた。
彼女はオープニングトレーナーだったこともあり、当然と言えば当然かもしれない。
投票期間中、彼女はみんなが集まっている場などで積極的に発言していた。いい意味で目立つ存在だったと思う。そう考えると、非常に順当な結果だ。
ところが受賞者が発表された時、一部の人達からは、
「あの人、賞取りに走ってたよね」
「こう言う時だけ目立とうとしてたからね」
という意見も聞いた。
彼女にトレーニングを受けたキャストからは、彼女が人によって態度を変える点を指摘していた。自分のお気に入りの人には楽しそうに話しかけるが、興味がない人には素っ気ない。人によって態度を変える、と。
僕の個人的意見としては、こういう人気投票があった時に、その時だけ頑張る行為を否定しない。やりたければやればいい。人気取りに走って賞を取れるならそれもいいと思う。高い評価が欲しいなら頑張ればいいのだから。
何かしら働きかけないとみんなの印象に残らないし、評価もされない。
ただし、自分がそれをやりたいかと言ったらノーだ。
人気投票そのものを否定はしない。当時はこんな投票で人の能力を正確に審査できるわけがないと思い込んでいた。
だが今は、これはこれである程度の指標にはなるし参考になる、いやむしろ人気こそが実力なのかもしれないと思っている。
★
最初から負けを認めて追いつこうと努力もしない僕だったが、ところで彼らは本当に才能に恵まれた人達だったのか。
例えば前回ご紹介したタカオさんは才能ある人か、というとちょっと違う気がする。彼はおそらく努力家タイプだ。努めてあの厳しいキャラを作っていたと思う。自分の中から自然と出てきたものとは異なる要素だ。
他の人達も後から思い返してみると、負けず嫌いな性格の人が多かったように感じた。ガムシャラに頑張った結果のパフォーマンスを、僕は才能と錯覚していたのかもしれない。
今だからこそ分かることだが、接客とは人と人が接する場に生まれる事象だ。そこに才能という基準を持ち出すのはちょっと違和感がある。
人に接する才能があっても別に構わないが、当時の僕が考えていた才能とは決して追いつけない要素という意味であり、芸術の才能とかスポーツの才能などとは根本的に違う。
だが当時の僕は、才能は生まれ持った素質であって自分には備わっていないのだ、と決めつけていた。
才能とは、勝ち取るもの
自分よりずっといい仕事をする人達を見ながら自分にはできない理由を並べ、あの人達は才能があるからだと決めつけていた。
少しでも追いつきたいと彼らに倣うこともせず、最初から諦めていたのだ。
才能ある人にはかなわないので、頑張ってもしょうがない、と。
それでおしまいか? それ以上何もせずに、ただ彼らの活躍を横で見てるだけ?
そんなの、つまらないじゃないか。
それで終わりだなんて、自分が許せない。彼らにただ負けを認めるのは正直言って、悔しい。
才能がないなら、別の何かで闘えばいいじゃないか。
周りの様々なキャスト達を観察していて、その答えは簡単に出てきた。
周囲のキャスト達の中には、あまり才能を感じさせない人達もいた。彼らは天才ではなかったが、その人独特の個性があり、それが持ち味になっていた。
キャストの仕事はガチガチのマニュアルで縛られていると思われがちだが、決してそんなことはない。遊びの部分、個々に委ねられている部分も少なくない。それは自分の個性を発揮するところだ。
人間は完璧に他人と同じ動きをするわけではない。どうしても、どうやっても個人差は生まれる。自然と生まれてしまう個性があれば、意図的に生み出す個性もある。
それは一定の範囲内であれば許されるものだし、それがその人独自の「味」になる。
味が強過ぎては枠からはみ出してしまうのでルール違反になるだろう。が、枠内であると自覚の上であれば問題はない。
基本を身に付けたらあとはある程度の自由が与えられる(正確には勝手に身についてしまう)。その幅の中でなら自分をアピールすることは可能だ。
ならば、やらない理由はないだろう?
そうだ。
僕は個性的なキャストを目指せばいいのだ。
と言っても、ただ変なことをやれという意味ではない。奇妙な個性を発揮してもへんちくりんなだけでは無意味だ。
決してキワモノを目指すのではなく、でも普通の枠にとらわれない、何か。それを追求していこう。
何人かの先輩キャストを見ていて、僕が考える才能のある人の範疇から外れる人達がいたが、決して引けを取ることのない立派な仕事をしている。
人には得手不得手がある。得意なことは思いっきりやればいい。苦手なことは無理をせず控えめに。得意な技を積極的に繰り出せばいいのだ。
僕が才能と感じていた彼らのパフォーマンスは、実はそんな超人的な要素ではなかったのかもしれない、と薄々気付いていた。
彼らは努力により、才能(に見えるもの)を勝ち取ったのだ。だから、僕も何らかの方法で、それに比肩しうるだけの何かを、勝ち取ればいいのだ。
自分の個性を発揮すればいい。
ところで、僕の個性とは一体何だ?
ここから僕の、自己探索が始まった。