キャストが守るべき四つの大原則に、SCSEと呼ばれるものがある。
大抵のディズニー関連本を読めば載っているので詳しく説明しないが、
・安全性
・礼儀正しさ
・ショー
・効率
の順番だ。
順番とは優先順位のことで、何を優先するかを決める基準だ。
安全性が最優先だからと言って、そればかり気にして他をおろそかにするのは現実的ではない。
安全性は最も重要だけど、じゃあ他の要素は無視していいのかということ。安全性ばかり気にしていたら、安全はバッチリかもしれないが他が犠牲になり、結果としてゲストは楽しめないだろう。
超簡単に言うと、「バカヤロー、危ねーじゃねえか!」と怒鳴るのはトラックの運転手くらいなもので、キャストには許されないセリフだということ。
つまり様々な要素を、バランスを取って扱わないといけない。
それを象徴するのがイエローライン際の間隔だ。
目次
イエローラインは近すぎず・遠すぎずの位置が最適
ここで素朴な疑問が思い浮かぶ。
そもそも、危険行為が起こるのは自然なことではないか?
だって、ゲストはワクワクしてやって来る。長い列に並んでひたすら待ちわびて、まもなく乗ることができる直前だ。気分は盛り上がって当然だし、ちょっとくらい騒ぐのも無理もないこと。
もし安全に気を配りたいなら、もっと安全な状態で運営すればいいのでは?
イエローラインをもっと下げればいいじゃないか。
動いているボートから1メートルくらい下げた位置に線を引いておけば、こんなに日々安全確保、安全確保と神経質になることもないだろう。
と、当時の僕も考えていた。
だが、リードの答えは明確で、身もふたもないものだった。
「(線を)後ろに下げたら乗り込みが遅くなって効率が落ちる」
……やっぱりそこか。
イエローラインを思いっきり後ろに下げると、その分乗り込むのに時間がかかってしまう。
一回あたりの乗船の遅れなんて、ほんの1秒か2秒くらい。
でもその遅れが毎回積み重なると、塵が積もって5分、10分となってしまう。秒を削って効率を上げるのがアトラクションの使命だ。そんな遅れは許されるものではない。
1メートルも下げたら、乗り込むまで永遠に近いくらい、遠い。
「ギリギリのラインで安全確保をするのがお前らの役目だ」
そう言われているのだ、このイエローライン(とリード)に。
乗り込みが遅くならない程度に近く、安全を確保できる程度の距離に決められた黄色い線。
どれだけボートに近づけて、なおかつ安全性を維持するか。ギリギリ間際までゲストには前に出て待機してもらい、準備が整ったらすぐに乗船を開始してほしい。
その瀬戸際まで攻めるのが運営側のミッションであり、工夫のしどころであり、使命なのだ。
キャストはきわどい安全性を抱えながらも、丁寧な対応と演出を保ち、なおかつ秒を削って乗船効率を高めるために全力を尽くさねばならないということだ。
長い待ち時間をうんざりしながら待ち続けて、ようやく乗り場までたどり着くゲスト達。お客さん達に最も貢献できる数少ない要素を、僕らは拾い上げて提供しなければならないのだ。
ただキャストによって、考え方も違えば価値観も違う。
安全性を最優先に行動すれば何の問題もない、とばかりにそこ一点に集中して行動する人や、現実にはそんな悠長なこと言ってらんないよ、と極めて現実的にバリバリ効率を追い求める人、様々だ。
もちろんお客様であるゲスト(あなた)は、そんなことは全く気にしなくていい。ただ楽しめればよいのですけどね。
ゲストはなぜキャストの言うことを聞いてくれないのか
ある日。
後輩キャストの一人が、休憩中に言った。
「あームカつく。今日のゲスト、全然言うことを聞いてくれないんだもん」
キャストのよくある日常風景だ(残念だが、現実だ)。
来園者に学生さんが多いと、比較的言うことを聞いてくれない。仲間内で盛り上がっているののもあるが、中高生はふざけるのが大好きだからだ。
「安全のためこちらで下がってお待ち下さい」と告げても完全無視。
むしろ逆にわざと危険行為に及んだりするものだ。
その日は特に学生さんが大勢来園する日でもなく、通常の、何の変哲もない一日だった。それでも、ゲストがなかなか言うことを聞いてくれない時がある。
こういう時は、ゲストがやたらと言うことを聞いてくれる時ってどんな状態の日か? を考える。
空いている日。
カップルだらけの日(これはキャストなら誰でも思い当たるふしがあるはずだ)。
そこで、ふと気づいたりする。
そもそも、ゲストって、本当に意地悪なのだろうか?と。
アトラクションの乗り方は、最初は誰もが自ら学んでいくもの
アトラクションを始めて体験する人はどうやって乗り方を習うのか。
高級レストランで食事をする機会を持たない人がテーブルマナーを学ばないように、アトラクションの乗り方も、乗らない人は知らない。
僕が現役キャストだった頃、アトラクションが動いているのを日々観察していて、疑問に思っていた。
生まれて初めてアトラクションに乗りに来た人がいたとする。その人が列に並んで、初めて乗るとき。
乗り場で何をすればいいのか分からず、混乱しないだろうか?
そもそもアトラクションの施設は、初めて利用する人のために設計されているわけではないことは、常々感じていた。
乗り場で動いている乗り物と、手すり、誘導するための白線黄線、座席番号。そして施設の端々に立つキャストが必要最低限の案内を二言三言で添えるだけ。
それだけ案内が充実していれば誰だって混乱しない? 実際はそうでもないから困るのだ。日常生活にありふれた風景なら誰も混乱はしない。しかしテーマパークは非現実な空間だ。
アトラクションはその最たるもので、非現実なモノばかりで構成されている。そんな物珍しい空間に入り込んできた人は、当たり前の表示やサインを見ても、正常に頭を働かせることができない。黄色い線や手すりで「こっちに進んでください」「ここで立ち止まって下さいね」と示されていても、そのとおりに動けない。
当時、キャストとして案内している時に、「こちらでお待ち下さい」とか「手すりの内側へお進みください」などと案内した時。
目の前に見えているはずの線や表示を、まるで見えていないかのように無視して別の方向へ向かっていくゲストを、日々無数に見てきた。
こんなに分かりやすい表示が見えていないの? って感じだ。
なぜゲストというのはこんなにもキャストの案内を無視するんだろう?ってびっくりするくらい。
でも、それは違う。
彼らはキャストの案内を無視しているわけじゃない。理解できていないだけだ。そして、それは理解力がないのではなく、非日常的空間に包まれているこの瞬間、正常な認識力を喪失しているだけだ。
多くのキャストは、ゲストが自分の案内どおりに動いてくれないことにストレスを感じていたりするものだ。しかし、ゲストは決して意地悪をしているわけじゃない。(中にはそういう元気な若い子達もいるけど)
ただ、特殊な世界観に抱き込まれて、非正常な状態になっているだけなのだ。
凝ったデザインの建物、施設。普通じゃない服装をしたキャスト達(笑)。
時に弾ける大音響のBGM。強烈な光や照明。
見たこともない風景の中に飛び込んでしまうと、正常な感覚を失ってしまう。
それがテーマパークの本質であり娯楽であり魅力であり、正体なのだけど。
そのせいで、誰もが次の行動を見失っているのだ。
特殊な空間にいることと、慣れていないこと。この2つにより、ゲストは「案内を聞いてくれない」状態になってしまっているのだ。
「私はアトラクションに普通に乗れるよ」
大抵の人は、そう思うんじゃないかな。
それは、以前乗った(利用した)か、他の遊園地などを利用した経験があるから、そう言えるのだ。
大抵の人は(ディズニーの乗り物は)初めてではないから、何となく知っている。駅で切符を買うとか自販機で飲み物を買うように、経験があるからすんなりできる。
でも全く知らない人は? 混乱しつつ、時には間違いをしながらアトラクションの乗り方を習っていくことになる。
誰かから教わるというより、自ら学んで慣れていく。アトラクションとは、乗り方を自ら学ばないと利用できない施設なのだ。
ほとんどの人、そう、あなたも最初に乗った時の混乱を忘れているだけだ。
テーマパークの施設は、慣れている人に最適化された設計になっている。大体こういうものだろう、と知識がある人だからスムーズに利用できる。
そして、
キャストは、慣れた人を案内することに慣れきっている。
だから、トンチンカンな動きをするゲストに慣れていないし、それを見ると混乱したり、ゲストって全然言うこと聞いてくれないよね、と思う。
たとえば、まだ動いている乗り物に乗り込もうとする人がたまにいる。キャストからしたらそんなのありえない、と思う。
でもよく考えてみると、ホーンテッドマンションは、ゆっくり動いている動く歩道から、等速度で流れる乗り物に乗ってもらう方式だ。
あれを体験してから他のアトラクションで同様な乗り方(動いている時に乗ろうと)するゲストを、果たしてとがめられるだろうか、とも思うのだ。
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ゲストとキャストの間には、埋められない溝がある。パーク運営側には何でも開示できない事情があるけど、そういう話ではなく、ゲストとキャストが触れ合う最前線での誤解が常に発生している。
これを少しでも埋め合わせることができたなら、もっとお互いに誤解するタイミングを減らせるのに、と思う。
今、来園できない時節からこそ、ふと思い至ってしまうのだ。