「キンちゃん、旗下ろしてきて」
リードのF原さんの指示を受けて、僕は船内へ戻っていった。
マークトウェイン号は船着場に停泊中だ。ゲストは全員降りている。
ドック(船着場)に接岸した船の側面に開いた扉を抜け、1階デッキから階段を上がる。2階を通り抜けて3階へ。
そのまま船尾へ向かう。
テキサスデッキと呼ばれる3階の、最後尾には、ぐるりと手すりが続いている。その最後尾のちょうど中央に、一本のマストが立っている。
マストのてっぺんには、細長い旗が掲げられている。
ディズニー特集の雑誌やTDR公式サイトに掲載されているマークトウェイン号の写真を見ると、ほとんどが船の全体が入るように撮ったものばかりだ。
だからか、マストのてっぺんはあまり注目もされないし見向きもされない。
だがそこには運営中ずっと、旗が掲げられているのだ。
35周年バージョンを見ると、船首と船尾に細長い旗がついていますね。
マストに2本のロープがからみつけられており、それを解いて1本を引いていくと、旗がするすると下りてくる。
旗を手にすると、ロープから取り外して、きれいに折りたたむ。
全体が青く、東京ディズニーランドの昔のロゴがプリントされている旗だ。
幅が30センチ、長さが1メートル20センチくらいだったろうか。
今日は朝から風が強い。
3階デッキ後方の両脇には左右に1本ずつ高い煙突があり、蒸気を絶えず吐き出している。白い蒸気が、こちらへたなびいてくる。
僕は残念な心持ちで旗をしまい、操舵室へ行き船内のBGMをミュートし、下へ戻っていった。
音楽が切れると船内は静かだ。
1階に降りると、一隻のカヌーがゲストを乗せて船の横を通過していく。
キャストが「1、2〜!」と掛け声をかけながらパドルを水面に力強く沈めるのが見えた。
目次
マークトウェイン号の最大の弱点は強風
マークトウェイン号には致命的な弱点がある。
風だ。
蒸気船は船体後尾についた外輪を回転させることで推進力を得る。エンジンで外輪を回して前に進む。
しかし外輪の力はあまり強くない。475名の定員いっぱいに乗客を乗せて走るには十分だが、船体が巨大なせいで強風が吹くと、船と乗客が帆の役目を果たしてしまい、大きな抵抗を受ける。
一定以上の風が吹くと、船は航行できず休止となる。
パークに吹く風は、とある場所で計測しており、風が出てくると風力情報が伝えられる。
TDLで最も風に弱いアトラクションが、当時まだ存在したスカイウェイだ。簡単に言うとロープウェイである。
その次がスタージェット、さらに強風になると空飛ぶダンボも止まる。
次がマークトウェイン号だ。
風が強くなり、マークトウェイン号の運営停止が決定すると、まず入場を止める。
そして、船が次の一周を回って船着場に戻って停泊したら、そこで運営休止だ。
戻ってきた船体の前後に、2本の太い係留ロープをかける。
そして、僕らは乗り場前に立ち、ひたすら風が止むまで休止を案内し続ける。
とはいえ、風はそんなにすぐに弱まるわけではない。いったん風がやんだとしても再び強まることはよくあるので、少し時間をかけて様子を見る。
風が出てくるとたいてい数時間は持続するので、その間は動けない。
蒸気船のエンジンはしばらくは動かしているものの、休止が長時間に及ぶと判断される際は、完全に止めてしまう。
船はエンジンで発生させた蒸気を推力にしている。エンジンを完全に停止させる時は、内部の蒸気を抜いてしまう。
完全停止したあとで再び動かすには、最低でも30分はかかる。だからすぐ動かせそうなら蒸気は抜かずに待つ。
しかしその日は、一日中風が収まりそうになかった。
運営停止してから一時間ほど様子を見ていたが、今日はもうだめだな、とリードが判断した。メンテナンスキャストへエンジン停止を依頼する。
少しして、蒸気を抜いていく音がボオオオ……と鳴る。勢いのある蒸気がだんだん抜けていって、やがて弱々しく消えていくと、完全停止する。
エンジン操作はメンテさんが行うが、その他の業務は僕らアトラクションのキャストが行う。
外輪も死んだように回転を止めている。
エンジンが止まり蒸気も抜くと、汽笛を鳴らすことができない。
操舵室の天井から吊り下がる汽笛を鳴らすひもを引いても、音が全く出ない。
僕は船内に戻り、備品を回収しに行く。
3階デッキにはためく旗を下ろすことは、マークトウェイン号の休止を意味する。
一見地味で目立たない旗だが、蒸気船の運営中であることを教える大事な目印だったのだ。
しかし皮肉なものだ。風がない時はだらんと垂れ下がっていて旗のロゴがよく見えない。
風にあおられて元気よくはためいていると運営できないなんて……。
風が止むまでひたすら待ち続ける日もある
風が強い日の一日は、長い。
一年を通して強風の吹き荒れる時期といえば、春だ。
そして夏から秋にかけての台風のシーズン。冬も意外と強風が吹く日が少なくない。
舞浜はすぐそばに海がある。パーク内外を隔てる植樹やホテル群があるものの、やはり風はダイレクトに海から吹いてくるわけで、避けようのない自然現象だ。
ゲストもせっかくやって来て船が動かないと分かると残念そうだ。
特に船着場に船が泊まっていたら、運営していると思うのは当然だろう。
近くまでやってきて、僕らが「お休みです」と告げて始めて知る。
今はアトラクションの待ち時間の掲示板ができて便利になったが、当時は直接キャストに聞くか現地まで行かないと分からなかった。
ゲストは無論のこと、僕らキャストだってつまらない。せっかく準備万端なのに、ちょっと強い風が吹いているだけで動けないなんて。
そんな日は、乗り場前がフォトロケーションと化す。乗れないならせめて写真でも撮ろうというわけだ。
乗り場の建物を背景にすると絵になる。ゲストに入口前に立ってもらい、僕らがカメラを構えて撮る。
女の子のグループが来て写真を撮って下さい、と言われる。
普通に撮っても面白くないので、変なポーズで一緒に写り込もうと必死になると、意外とウケてくれるので楽しい。
日中はまだいい。割とゲストも歩き回っているのでそれなりにやって来てくれる。
だが日が暮れると辺りは真っ暗になり、歩いているゲストの姿もない。
この頃、平日の閉園時間は19時が多かったので、夜のパークは短いが、土日ともなると22時閉園なので、昼間から停止していると半日そのままである。
一日中風が収まらないときは、船が奥に引っ込んでしまう。アメリカ河の裏側に「ドライドック」と呼ばれる停泊場所があり、船を格納するのだ。
船着場から船が消え、だだっ広いアメリカ河の川面を眺めていると、ひたすら虚しい。
◇
風が弱まってくる日もある。
リードが30分おきに流れる無線の風力情報を聞いている。少し風が弱まったようだ。
次の(30分後の)風が下がったら動くぞ、と告げる。
やっと動くか、と期待する僕ら。
外に出ると、何となく風が収まったようであり、あまり変わらないようでもある。
リードオフィスで待機していると、リードが無線機のイヤホンを外して音声を流している。
園内のアトラクション情報やセキュリティキャストのやり取りが流れる中、風力情報も流れ出す。
「14時現在の風です。南南西の風、12〜14メートル」
下がった。
「よし、行くか」
リードが決断し、再開が決定する。
「メンテさんに動かすよう伝えてきて」
次の指示が飛び、僕は1階デッキで待機するメンテさんへ伝える。
退屈そうなメンテさんも、待っていたかのように「了解!」と答えると早速エンジンを操作し始める。
次に僕は操舵室へ行き、船内のBGMのミュートを解除する。
さっきまでしーんとしていた船内に、陽気で軽快なバンジョーの音色が弾けるように流れ出す。
ようやく復活だ。
もちろん例の旗を持ち、マストへ掲げる。
まだ強い風が、勢いよく旗をなびかせる。
やはりこの旗がなくちゃね。
◇
風に弱いという点こそが、僕にとってマークトウェイン号での勤務している上での悩みの種であり、近いうちに大きな決断をするきっかけになる。