カフェイン中毒
ガガガ……。
不気味な音を立ててコーヒーマシンが唸りを上げた。
一体どうなってるの、全く。
初見詩野は焦りに焦りまくっていた。
マシンの調子が悪い。うまくエスプレッソが抽出できない。
開店初日からこのありさまとは。
トホホ、という単語が彼女の脳裏に浮かんで爆発して消えたーーいや、爆発したのは目の前の旧式の機械だ。
バシュッ、バシュバシュ。空気ばかりが吐き出されて肝心のエスプレッソが……。
ぷすんぷすん。
「ああっ!」思わず声に出してしまう詩野。
ーー止まってしまった。
カウンターの向こうから、中年男性客が残念そうな顔でマシンの反逆行為を観察している。
「あの……まだ?」
「す、すみません。機械の調子が悪くて……」
「あとどのくらい?」
「そうですね……あの、本日のコーヒーはいかがですか?」
「……じゃあそれで」男性客は少々機嫌を損ねたように答えた。
詩野は頭を下げ、レジからオーダー変更した分の差額を取り出し、返却する。
マシンの具合を診ていたアルバイトの雲山隼人が、
「あーこれ駄目ですね。何度押しても反応ないです」
連続で電源ボタンを押しまくる隼人。
「ちょっと、やめてよ。壊れちゃうじゃない」
「もう壊れてますよ」
「もっとひどくなるでしょ」
「これ以上ひどくなりますかね」
「貰い物なのよ、この機械」
詩野は、溜息をつきながら言った。
*
修理業者がやってきて、機械の裏蓋を開いて点検している。
スーツ姿の業者の男性は、汗をかきながら内部をマグライトで照らしている。欧州生まれのメカニズムの裁判官は、残酷な判決文を読み始めた。
「こりゃ駄目だ。サーモスタットがいかれてます。部品は今、日本にはないので、おそらく本国からの取り寄せになると思います」
「どのくらいかかるの?」詩野が心配そうに尋ねた。
「費用ですか? それとも期間ですか?」
「どっちもよ」
「いや駄目だ、このタイプのマシンを修理できる者がもう引退してしまってるんですよ。ひょっとしたらマシンごとイタリアへ送り返して修理してもらう事になりそうです。それだと……」
業者は信じられないような結果を弾き出した。
「日本に戻ってくるのは3ヶ月後で、少なくとも25万円……」
「はあああああ?」
詩野は目をひん剥いて仰天した。
「それじゃ営業できないじゃないの!」
「私に言わないで下さい。こんな古い機械、動いているだけで奇跡ですよ」
「奇跡だろうが何だろうが、動かなきゃ店を開けないでしょうが」
「新しいマシンはいかがですか」
業者は分厚い鞄からカタログを取り出した。
「おすすめはこれですね、お値段は30万からーー」
詩野の怒りに満ちた表情は、修理法規の裁判官の口を閉じさせるだけの邪気を撒き散らしていた。
畜生、これも全部あいつのせいだーー。
詩野は2ヶ月前の事件を思い返していた。
詩野がこのエスプレッソマシンを譲り受けたのは、2ヶ月ほど前のことだ。
前の持ち主は、同時にこの店の前オーナーでもあった。
喫茶店『カフェイン中毒』は、新興住宅地と駅とを結ぶ県道沿いに店を構えていた。
最初、詩野はその店の前を通りかかった時、これはカレー専門店だと勘違いした。勘違いして入ってみると、ただの喫茶店だったというわけだ。
なぜ勘違いしたかというと、入口の横にゾウの置物が飾られていたからだ。しかもそのゾウは黄色いエプロンを腰に巻いていて、エキゾチックな文字で『Curryshop』と書いてあったのである、間違えたのも無理はない。
「何と書いてあろうと、ここは喫茶店だ」
前オーナーの佐橋道隆は、悪びれもせず言い放った。
「じゃああのゾウの存在感は何ですか」
「ただの置物だ」
「ただの置物が、あんなに態度でかくていいんですか」
「いいんだよ」
「良くないと思います」
詩野は食い下がった。ちょうどカレーを食べたかったのに食べられなかった悔しさが彼女を意地っ張りにさせた。
「気に入らなかったら、来なきゃいいんだ」
「そういうわけにはいきません」
「お前さん、何を言ってるか訳が分からんな」
「自分でも分かりません。さっぱりです」
カレーは食べられなかったが、コーヒーを一杯ごちそうになった。正規の料金を支払おうとしたが、なぜか佐橋はお金を受け取るのを拒否した。
「ここはお店ですよね。なぜタダなんですか」
「いや、実は店じゃないんだ」
「は、喫茶店って言ったじゃないですか」
「ちょうどレジが壊れてしまってな」
「お釣りはいりません、ほらちょうど550円あるし」
「ドロワーが開かないから、いらん」
「ひょっとして、私をバカにしてます?」
「やっと分かったか」
「あの、ですね……」詩野は絶句した。
「冗談だよ。お前さん、面白いやつだな」
「あなたの方がずっと上手ですよ」
詩野は負けじと言い返す。
「でも、さすがに払わない訳には行きません。なので、働かせて下さい」
「何?」
「このお店で」
もはや単なる意地の張り合いである。いかに相手を戸惑わせて混乱させ返答に詰まらせるか、ひねくれた者同士だけが共有できる着地点の見えない応酬の向こう側へ駆け抜けていった。詩野は佐橋が返答に困る言葉なら何でも投げつけてやるつもりだっただけで、別に仕事に困っているわけではないし、言った瞬間しまったと思ったくらいだ。でもどうせオーナーは自分の提案などきれいに拒否してくれるだろうと想定していた。佐橋の髭をたくわえた口が打ち返してきた鋭いボレーシュートは、
「明日11時に来てくれ」
というものだった。
「極上のコーヒーを飲みたい。」となればここのコーヒーをオススメします。
さて、どう断ろうか。
売り言葉に買い言葉とは言え、すっぽかす訳にも行くまい。詩野は時間より少し早く店に到着した。
別に私は悪いことをしたわけではない。ただちょっと弾みがついて大げさな表現になってしまっただけだ。
しかしよく考えてみると、彼女が支払わなかったのはコーヒー一杯分。その分だけ働かせてもらえれば結構です、と言えばいいのだ。そうだ、そうしよう。一時間分の時給にも満たないくらいだし、ちょっと店の床でも拭き掃除をして終わりだ。うん、それがいい。
店のドアを開けると、佐橋がカウンターの中で開店準備をしていた。
「こんにちは」
「こっちだ、こっち」
佐橋が手招きした。
「あの、お断りしておきたいことが……」
「このマシンの掃除方法を教えとくから」
「え、その……」詩野は焦った。まずい、本気モードで教えようとしている。「私、コーヒー一杯分だけご馳走になっただけで……」
「こいつが意外とやっかいなんだ」
「私、今日一日だけやらせていただきますので。いいですか」
「いいよ。で、こいつの掃除はまずここからだ」
佐橋がマシンの説明を始めた。
もう勝手にして。詩野は言われるがままにハイハイ頷いた。
佐橋は満足そうに次々と開店準備の説明を始めた。掃除から始まり、機械類の始動、コーヒー豆の選定、テーブルのセッティング、表看板ーー気が付かなかったがゾウの置き物以外にも立派な看板があったのだーーを表に出したり、細々と自分がやってみせたのだった。
開店時間になった。
だが客は一人も来ない。
「お客さん、来ませんね」
「平日だからな」
「そうなんですか」
「そういうものだ」
「はあ」
「お前さん、名前は」
「初見詩野です」
「後で就業契約書を作ってやる」
「ええ、大げさな」
「一応契約だからな」
「結構です。そんなお手間は……」
「手間じゃないさ。俺は会社勤め時代、随分と長く総務にいてな。その手の書類を毎日作成していた」
「ああ、脱サラしてお店を始めたんですか」
「まあな」
「あまり繁盛していないようですね」
「金儲けが目的じゃないからな」
「じゃあ何が目的ですか」
「あら、カッコいいこと言いますね」
「カッコよくて何が悪い。お前だって化粧してるだろうが、それだってカッコつけだ」
「身だしなみですよ。カッコつけてお化粧したことなんてないです」
「無意識にカッコつけてるんだよ」
「無意識にメイクできる能力が手に入るならお金を出してでも欲しいですね」
「ふん、そんなの、毎日きちんと習慣付けてやってれば自然と身につくものだ。ただの怠慢だよ」
「怠慢で何が悪いんですか。人はみんな怠け者でしょう」
「言い訳だな。そうやってお前さんは無駄に歳を食って死んでいく」
「じゃああなたは無駄じゃない生き方をしているってわけですね」
「もちろんだ。俺はこの店に誇りをもっているし自慢でもある」
「お客さんが一人もいないお店で大満足ですか。ご立派ですね」
「納得していないようだな」
「よく経営が成り立ちますねって意味では、イエスです」
「まあいいさ」
佐橋は、コーヒーマシンに大量のコーヒー豆をセッテイングし始めた。大きな袋から、豆を大胆に、大量に投入口へ流し込む。
「そんなにたくさん……。もったいない」
「ん、何がだ」
「豆。誰が飲むんですか」
「客に決まってるだろ」
詩野はため息をつく。
「どこに?」
店内はガランとしている。
佐橋はふと、気づいたように、
「今、何時だ」
詩野は壁の時計を指す。
「ご自分でどうぞ」
時計は11時50分を回っていた。
「ああ、忘れてた。ちょっと買い物を頼む」
「はい?」
「近所のスーパーで。コーヒー用の砂糖を買い込んできてくれ」
佐橋は1万円札を1枚、詩野に渡した。
「え」
「買えるだけ買ってきてくれ」
「いいんですか?」
「ああ」
「いつ使うんですか、そんなに」
「お客に出すんだよ」
「お客って、自分のことですか」
「意味が分からんな」
「どこにいるんですか、そのお客?」
「これから来るんだよ」
「……だといいですね」
詩野は小馬鹿にしたように言った。
渋い顔を崩さず、詩野は歩道をトボトボ歩いていた。
ふと我に返り、自分がなぜこんな知らない道を歩いているのか、一瞬わけが分からなくなった。ーー実にバカバカしい。なぜ私が買い物を頼まれなきゃいけないんだろう?
詩野は自分の行動の愚かしさに舞い戻り、一人で買い出しに向かっている自分を惨めに感じ始めていた。
もうやめだ。このまま帰ってしまおう。別にあの店に戻らなくてもかまわないだろう。誰も咎める者はいないし、あの店主も別にわざわざ逃げ出した彼女を追いかけてくる事もないのだから。
彼女は自分のバッグをちゃんと携えて出てきた。逃亡の条件は満たしている。彼女の個人を特定する証拠も置き忘れてはいないし大丈夫だ。
ーーこの手元の1万円札以外は。
……たった1万円だ。
……後で郵送で送り返すという方法もある。
詩野は、道の真中で立ち止まった。
詩野は、自分の両手に下げた業務用スーパーの袋一杯に買い込んだコーヒー用シュガーを、改めて見下ろす。
結局、買ってしまった。
重い。肩にずっしり来る重さに、もううんざりだ。これを置いてすぐ帰ろう。
店の前まで来ると、ドアを開けて入ろうとする人がいた。
ーーあ、お客さん、やっと来たんだ。
店のドアを開けて、詩野は呆然とした。
満席だった。
狐につままれるとはこの事だ。どの席にも客が着席し、賑やかに歓談している。
詩野はまるで別の惑星を訪れたかのようだった。
佐橋がカウンターの向こうから声をかける。
「片っ端から配ってくれ。今日の客は糖分が好きな連中ばかりでな」
詩野は袋をカウンターに置き、中身の梱包を解きながら席を回り、砂糖を配って回った。
よく見ると、年寄りが多い。いや、ほとんどが老人の客で占められていた。
「……どういう仕掛けですか」
佐橋は壁の時計を見た。12時半を回っている。
「昼時だからな」
「……どこから来たの、この人達」
「おい、どこから来たんだってさ」
手近に座っていた老人が窓の外を指した。店外のどこかを指している。だが詩野にはさっぱり意味が分からない。
「市民センターがあるだろ」
「ああ、あの大きい建物」
「元々農業をやっていた経験を生かして、家庭菜園の作り方を教えてる。カルチャースクールの先生様と生徒達がこうして来てくれる」
「お昼時の休憩時間だから、か」
「必要な時にそこにあるのがいい店の条件だ」
詩野は、お客さん達が楽しそうな人ばかりなのに気づいた。誰もが談笑し、何かについて話し合って意見を交わし合っている。ただスマホをいじって時間を潰す人や自宅代わりに利用して試験勉強や宿題をこなす学生、喫煙場所を求めて漂着してきたヘビースモーカー達などで構成されている普通のカフェではない、人と人の交流が活発に行われている市場のような雰囲気が感じられた。喫茶店にいて喫茶店ではない、不思議な空間に紛れ込んだような感覚だ。
「最初、サクラかと思ってました」
「似たようなもんだ。元はと言えば、俺がスクールの講師をやってた縁でみんな応援の意味もあって来てくれてるのさ」
「へえ、先生やってたんですか」
「ガラの悪い講師だがな」
「珈琲の淹れ方教室ですか、それとも脱サラの仕方ですか」
「カレーの作り方教室だ」
「え……」一瞬、詩野は言葉を失った。入口のゾウの置物を連想したからだ。
「これでもカレーにはこだわりがある。この店は喫茶店の前はカレー屋だった」
「あ! それで……」
やっぱりそうか。詩野は何となく腑に落ちた。ゾウの置物のせいではなく、何となく店構えにカレー店の雰囲気を感じた気がしたのだ。初めて店を見つけた時の、この店はカレー店だと確信したあの瞬間を後押ししてくれたような、心地よい納得感が押し寄せてくる。
「何でやめちゃったんですか」
「カレーに飽きたんだ」
「今、作って下さいよ」
「無理言うな。材料がないし、やる気がない」
「えーもったいない。再開して下さいよ。私毎日食べに来ますから」
「食いたきゃ自分で作れ」
「できたらお店で食べませんよ。この店の定番メニューでどうですか」
「もう作る気はないんだ……」
突然、佐橋が額を手で押さえて唸る。
ーーガタン。
佐橋が床に倒れ込んだ。
*
店の前に救急車が横付けし、近所の人が見物に来ていた。
二名の救急隊員が店の中へ突入してきた。お客達が歌舞伎の大立ち回りを観劇しているかのように興味津々に見守っている。誰一人心配している様子の客はいなかった。それをなぜか詩野は、冷静にとても奇妙に面白い現象だと感じていた。
救急隊員の片方が尋ねた。
「何か持病はお持ちですか」
「えっ、私に訊かれても」
店にいた常連客の一人が、いつもの発作だから大丈夫と答えた。
「ただの脳梗塞だよ」常連客が言った。
「ただのじゃないと思いますけど」
「かかりつけの病院はありますか」隊員が質問する。
「さあ」
「二丁目の成葉病院だ」
なぜかこの常連客のおじいさんは詳しい。
「診察券はありますか」
「お嬢さん、カウンターの中を探してみてくれ」
詩野は言われるがまま、カウンターの中の引き出しを探ったーー見つけた。
「では、どなたかご一緒に来て下さい」
「お嬢さん、行ってやれ」
「え、あの、私今日限りのバイトですけど」
「誰でもいいんだ」
「お店は……?」
「俺達が見ててやる」
今日初めて仕事をした店で、初めて会ったお客さんに、突然こんなことを言われても何も反応できないのが普通ではないか。ところが詩野はなぜか今の状況を面白いと感じており、その言葉に付き従うように救急隊員に促され、外からストレッチャーを運び込んできた隊員が佐橋を乗せて外へ搬送し、救急車両に共に乗り込んで同行と相まったわけである。
不思議な時間が流れていった。
もうどうにでもなれ。
廊下でしばし待ち、救急処置室から病室へ移送される佐橋のストレッチャーについていき、病室へ収容されると、詩野はどっと疲労に襲われた。
もういいだろう。私の役目は終わった。
帰ろうとする詩野に、ベッドに寝ている佐橋が声をかけた。
「すまないな」
「あ、起こしちゃいました?」
「気にするな」
「ご家族の方の連絡先を教えてください」
「いない」
「どなたも?」
「女房は死んだし、親も死んだ」
「看護師さんに伝えてきます」
「頼みがある」
「はあ」
「明日、店を開けて欲しいんだ」
「え、私が?」
「明日も客が来る。開けないわけにはいかない」
「無理ですよ。私何も知らないんだし」
「今日と同じにしてくれればいい」
「いやいや。私何もやってないし」
「店を続けることを最優先に考えたら、それしか方法がないんだ」
「自分の体を最優先しましょうよ」
「女房との約束を守るためには、続けるしかないんだ」
「そんな、いきなり内輪話を持ってこられても……」
「女房は俺が殺したも同然だ、だから償いのためにも、やらなきゃならない」
「複雑な事情ありまくりですね……」
「俺が仕事に夢中になっている間に、全てを失った。俺は、償わなきゃならないんだ」
佐橋が咳き込んだ。
「無理ですよ、私……」
「じゃあ無理になる一歩手前までやってくれ。それ以降はやめても構わない」
「は、何ですかそれ」
「忙しいのが無理なら、忙しくなった時点でやめればいい」
「むちゃくちゃですよ、それ」
「明日だけでも、頼む」
「あの、私仕事があるんですけど」
「一日だけでもいい」
「……話聞いてます?」
「半日でもいい」
「……無理です」
詩野は溜息をついた。
*
日が傾きかけた頃、詩野は店に戻ってきていた。
店はまだ開いており、数人のお客さんが残っていて、常連客のおじいさんもなぜかカウンターの中でエプロンをつけて立ち働いている。
「あの」
「おう、お帰り。奴はくたばったかい」
「あいにく元気でした」
「残念だな」
周囲と一緒になって笑った。
「私、明日このお店を開いてくれって頼まれたんですけど」
「お前さん、奴に信用されてるんだよ。明日やってるところを見に来てやるよ」
「そんな……」
詩野は途方に暮れた。
プロが厳選したコーヒーを毎月お届け【極上コーヒーセレクション】
カウンターの中の引き出しにA4サイズの封筒が入っていた。
詩野は中の書類を取り出す。雇用契約書が入っていた。病院を出る時に、引き出しにあるからサインしておけと言われたのだが、読んでみると仰々しい文体で業務内容が記載されていた。バイトでしかも一日限定なんだからもっと簡単でいいのに、異常な力の入れようである。
さらに同封されていた書類には、店舗業務の概要やコーヒーマシンの使用方法が項目別に列挙されており、さながらカフェの取扱説明書のような内容がボリュームたっぷりに盛り込まれていた。
まさか……彼は私を本格的に仕込むためにこんなものを作ったわけでもあるまいが、それにしても用意周到過ぎる。
確かに私は働きますと衝動的に言ったが、カフェで修行しますなどと言った覚えはない。
1日だけ。たった1日だ。
いやいや。なぜ私がやらなきゃいけないんだ。
「おーい、聞いてるか?」
おじいさんが呼んでいた。
「は、はい」
「お客だよ」
気がつくと、新しいお客さんが入ってきて席を選んでいる。
「いらっしゃいませ」
と声をかけたのは詩野ではなく、助っ人のおじいさんであった。
夜。
自宅に戻った詩野は、分厚い書類を持ち帰り、何となくぱらぱらとページを開いていた。コーヒーテーブルに一杯のカフェオレを用意し、少しずつ飲みながらページをめくる。
書類は主に、店舗の運営方法について事細かく書かれていた。
真ん中あたりまでめくると、《事業計画書》と扉に記載されたページが現れた。書体も文面もフォーマットも異なる、明らかにそれまでとは別人が書いたと思われる書類だ。表紙の下部に署名があったーー佐橋律子。おそらく銀行か出資者に対し提出したものであろう。佐橋の個性が全く見られない文章が続く。
さらにそれ以降のページは、店のコンセプトやら開店までの道のりが日誌風にまとめられ、当初のカレーショップの店舗完成から営業開始までの、いわば営業記録の体裁で書かれていた。ここは何となく佐橋が書いたものだと感じられた。
最後のページまで来て、詩野は指を止めた。
『律子、吐血。病院へ搬送。朝までもたなかったーー』
詩野は読むのをやめてしまった。書類をぱたっと閉じる。
書類をコーヒーテーブルに置いて、カフェオレを飲む。
表紙をチラっと見て、残りを一気に飲み干す。
溜息をついた。
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*
朝ーー。
詩野が店の前に来ると、人だかりができていた。
ざわついた集団が店の入口前に壁を作っている。その物々しい雰囲気に、一瞬逃げようかと詩野は思ったが、その中に例のお爺さんがいたので興味をそそられて近づいていった。
「あの、どうしたんですか」
「店が乗っ取られてるんだ」
「は?」
「ほれ」
入口のドアが半開きになっており、奥の方で物音が激しく鳴り響いている。続けざまにガラスや陶器の割れる音がして、複数の男性の怒号がそれに続いた。ただならぬ緊迫した空気に、詩野は何が起きているのかさっぱりつかめない。
店の奥を覗き込むと、いかつい屈強な男性が三人、あちらこちらの引き出しを開けては中身を床にぶちまけて、脚で蹴り広げて何かを探しているような動きをくり返す。食器も冷蔵庫の中の食材も捜索の対象から逃れることはできず、次々と床の隙間へ敷き詰められていく。
もはや通常営業できるような状態ではない。
「何なんですか一体?」詩野は周囲に向かって問いかける。
「借金取りだな」
お爺さんが答えた。
「やっぱり……経営が苦しかったんですね」
「いくら探しても金は出てこないだろうがな」
お爺さんは店内の暴挙を、面白そうに眺めていた。
「何だか楽しそうですね」
「そろそろ気が済んだかな」
店の奥から男が一人、出てきた。
「この中に、初見って奴はいるか」
詩野はギョッとした。
周囲の見物人達はお互いに顔を見合わせたが、答えられる者はいない。
男は手にしていた用紙を見て、
「初見……詩野って奴はいるか?」
詩野は答えるべきか、迷った。
「この店のオーナーだ。初見の知り合いがいたら伝えろ。逃げられると思ったら大間違いだってな!」
は? と詩野は思わず声を漏らしそうになった。
男は見物人達を威嚇して、歩道の反対側へ向かう。
他の男達も出てきて周囲の目線に噛み付く。
「いつまでも見てんじゃねえぞオラ!」
見物人達は後ずさる。
「あの、すいません」
詩野は思わず口に出す。
「あ?」男の中の一人が振り返る。
「ちょっと聞いていいですか」
「……お前、初見か?」
「この店のオーナーは佐橋さんです」
「借用書には初見って奴が共同経営者になってる」
男は用紙を掲げてみせた。なぜか詩野の署名が、薄い文字で入っている。自分の筆跡に間違いない。詩野は腰を抜かして地面にしゃがみ込みそうになるのを堪えた。
「昨日までこのお店にいたから間違いありません。オーナーは佐橋さんって人です」
「知るか。俺達は金が回収できれば誰でもいい」
「私、彼にお金貸してるんです。知ってたら教えてください。お金が返ってこないと私、生きていけないんです!」
「知ってたらな。その前に俺達が有り金全額回収するけどな」
男が皮肉っぽく吐き捨て、睨みつけた。
男達は道路の反対側に停めてあった黒塗りのバンに乗り込み、去っていった。
プロが厳選したコーヒーを毎月お届け【極上コーヒーセレクション】
とにかく、佐橋に確認しなければ。
その足で詩野は病院へ向かった。
だが病室へ向かう前に、受付で佐橋が退院したことを告げられた。
「どこですか、彼の住所は」
もちろん受付で尋ねても教えてくれるはずもなく、あの店以外何も知らないわけで、詩野はまるで逮捕直前に犯人を取り逃がした刑事のような打ちひしがれた気分に包まれたのだった。
店に戻ると、お爺さんがホウキとちりとりを持って、店内をのんびりと掃き掃除していた。ガラスや陶器の破片を一箇所に集め、使えそうな物をカウンターの上に並べていた。
詩野はカウンター前の椅子に腰かけ、なぜ借用書に自分の署名が入っていたのか、考えていた。
過去にそんな署名をした覚えもないし、保証人になった記憶もない。
……署名なら、した。
昨晩ーー
病室で、佐橋が取り出したバインダーに、書類が挟んであった。
《雇用契約書》と標題。
「大げさな。そこまでしなくても」
詩野が訊くと、
「そうはいくか。ちゃんとした雇用契約だからな」
佐橋が真剣に訴えかけるので、思わずサインしたのだ。
あの時、バインダーには何枚かの用紙が重ねられており、何の書類だろうかとぼんやり考えたが特にめくって確かめるでもなく、すぐ忘れてしまった。
あの書類の彼女のサインと借用書の署名の位置は、ほぼ同じだったーー
文書偽造じゃないか!
あんな適当な書類が法的に認められるものだろうか。ありえない。
詩野はだんだん腹が立ってきた。
「あーもうムカつく!」
「まだ使えるものがたくさんあるぞ」
お爺さんは楽しそうに言った。
「私、めっちゃ腹立ってるんですけど」
「この店、もらってやればいいさ」
「あんなインチキ書類、成立するわけないでしょ!」
「奴はこの店をあんたに譲ったんだ。いいじゃないか」
「私が受けたわけでもないのに?」
「棚から落ちてきたぼた餅が美味いか不味いか、食ってみなきゃ分からないよ」
「借金を抱えるんですよ、馬鹿馬鹿しいにも程がありますよ」
詩野が反論しようとした時、入口から郵便配達員が入ってきて、
「速達です」
詩野が封筒を見ると、自分宛だった。
受け取り、封を切ると、中から店舗の譲渡証明書が現れた。
書面には、同じ位置に彼女の署名が。
もう、呆れるしかない。
「一日だけでもやってみればいい」
書類を読んだお爺さんは、ニコニコして言った。
*
一番訳が分からないのは自分自身だった。
お爺さんのすすめで、一日だけやってみようと思い立ち、めちゃくちゃになった店の一部だけを限定的に開店してみると、やはり昼時にわらわらとお客が来店して、昨日と同じ活況を呈したのだ。当然、詩野が一人で対応できるわけもなく、件のお爺さんや他のお客さんが、まるで打ち合わせたように手伝ってくれてコーヒーを提供し、お客さんたちは自分でカップを取りに来てテーブルに戻り、とまるでセルフサービスが勝手に機能しているような状態で、おまけに会計も詩野があたふたしている合間に誰かが勝手にレジに置いたカレー大皿に小銭が放り込まれ、大道芸人の前に用意された賽銭を入れる空き缶を思わせる即席ぶりで、気がつくとセルフレジが自然成立していた、という具合に、彼女の健闘ぶりを応援するかのように店全体が混沌の中で偶発的調和として醸成され、成り立って行くという実に奇妙な時間が流れていったのだ。
ピークタイムが過ぎる頃には、詩野はへとへとに疲れ切っていた。
詩野はカウンターの中のシンク前でうず高く積み重なったカップやグラスを眺め、それから席に残っているお爺さんに目をやり、呆けていた。
「……私、何やってるんだろ」
「人気者だな、君は」
「まさか」
「気に入ったのさ、みんなが」
「何を?」
「君の人徳を」
お爺さんはコーヒーカップを口に運んだ。
「はは、まさか」
「こうしてお店は作られていくものなんだ」
「今日だけなのに」
「あと一日、やってみないか」
「いや、冗談でしょ」
「みんな本気だよ」
詩野は首を振った。
お得な特典付きで月々2,700円(税抜)!極上コーヒーセレクション
それから二ヶ月はあっという間に過ぎ去った。
全くやる気はなかったのに、必要に迫られてーーお爺さんや常連客にせがまれてーーあと一日だけ特別に、また次の日にあと一日だけ、と店を営業させられてしまった。
元々詩野が務めていた会社には病欠連絡をしたが、さすがに三日目ともなると疑り深く根掘り葉掘り病状について追求され、半ば強制的に電話を切るより他はなかった。どうせ派遣社員の身分だったし、自分に合っているとも思えず惰性的に契約延長を繰り返していたがそろそろ辞め時だろうと覚悟していたので煮るなり焼くなりしろ、と開き直った態度で行くことに決めた。
一週間が過ぎる頃には、自分が何をやるべきか作業量がどのくらい昼間の1時間に集中するかが体感的に掴めてきたので、前もって準備を進めることで完全に動けなくなる事態は回避できるようになった。
思い出せば、佐橋が初日に解説してくれた手順こそが最も労力が少なく、また店全体を見渡せる方法であることに気づいたのだった。
詩野が何度もこんな意味の分からない仕事を辞めようと決意するたびに、お爺さんがやってきてあれこれと褒めてくれたり励ましてくれる事に気づいた。なぜか自分が挫けそうになるのを予め知っているかのようにいいタイミングで声をかけてくれるのだ。
「なぜですか、その絶妙さ」
訊いてみたことがある。
「顔に出てるんだよ」
詩野は鏡を取り出し、自分の顔を見る。分からない。
「そんなに怒ってます?」
「泣きそうだよ」
詩野は顔をしかめた。
やがて、もう一人いればさらに楽に作業をこなせるという結論に達し、アルバイトを雇うことにした。
一体何をやっているんだろう、私。
ホント、意味が分からない。
*
バイトの雲山隼人がトレイにコーヒーを乗せ、窓際のテーブルに近づいてくる。
テーブルには、件のお爺さんとその仲間が着席している。
雲山はカップを二人の前に置いた。
「さっき奇跡的に動き出したので、今日はご機嫌いいみたいですよ」
雲山はカウンターの中のコーヒーマシンを指差した。
「いいね。この調子だよ」
「いつまた止まるか分かりませんけど」
雲山が去っていった。
コーヒーマシンに向かって、詩野が何やら祈っている。今日も無事に動いてくれますように……そんな風に呟いているのが聞こえてきそうだ。
「今度の子は大丈夫かね、さっちゃん」
お爺さんの連れの老人は言った。
「さあな」
お爺さんは答えた。
「でもよ、何でこんな手の込んだ真似をするんだい」
「だって、適性なんて自分でも分からんだろう」
「だからって道隆君まで利用してよぉ」
「あいつが店を辞めたいっていうから、だったら代わりを見つけてこいって言ってやったんだよ」
「で、あの子か」
「俺は逃げるから後はよろしくってよ。全くバカ息子がよぉ」
お爺さんは白髪の頭を撫でて、カウンターを見る。
詩野が二人の視線に気付き、こちらを見てくる。悲しそうな顔。
「どれ、行ってくるか」
お爺さんーー佐橋幸雄ーーは、にっこり微笑み、立ち上がった。
プロが厳選したコーヒーを毎月お届け【極上コーヒーセレクション】