伶美の賭けとタンブラー
「私ね、約束したの。彼が戻ってくるまでここで待ってるって」
傷だらけのカウンターに置かれたコーヒーカップを見つめながら、室崎伶美は呟いた。
カウンターの内側の店主は背中を向けたまま聞いていた。
実際には、それは彼女の独り言だったのかもしれない。しかし、振り返ろうとした店主の様子を窺っていたのは間違いない、なぜなら、店主の三上がゆっくりと顔を伶美に向けたのを見計らって再び口を開いたからだ。
「……でもね、彼は100%戻って来ないんだ」
三上は穏やかな顔を伶美に向けて微笑んだ。
「何年か前に、アメリカの潜水艦が練習生を乗せた帆船に衝突して沈没した事件、覚えてる?」
三上は小さく頷いた。
「その航海で彼は、初めて船で太平洋へ出ていくんだって言ってた。ワクワクして眠れないって、初航海の前日の夜中に電話してきて。明日の朝から出港なのに、私、ずっと明け方までお喋りに付き合わされて。翌朝、一睡もしなかった彼を乗せた大きな帆船は、1年と数ヶ月間の長旅へ出発していった。彼の輝かしい未来には、一等航海士として活躍する未来が待ち受けていた。でも、その未来は決して訪れることはなかった」
三上は驚き、深刻な表情を浮かべて話の続きを待った。
「……彼の母親が私に事故のことを知らせてくれたのは、事故から3日もたってから。ねえ知ってる? 遺族は政府の負担で現地まで送迎してくれるけど、私はまだ家族でもないただの他人だったから旅費は自己負担になるって。……私、行けなかった。仕事もあったし、何より旅費を払えなかったの。薄情かな?」
三上は首を横に振った。その手は空のコーヒーカップを取り、布巾で丁寧に磨いている。
「でも、彼の両親はそう思わなかった。私を、婚約者が亡くなった途端、きれいさっぱり忘れ去る女だと決めつけた。あの時は辛くて、海を見たくなかったのよ。彼を飲み込んでしまった海を、わざわざ見に行くなんて、そんな勇気はなかった」
伶美が口を閉じ、しばし沈黙が流れる。両手で包んだカップを眺めている、コーヒーの残ったカップの底を見透かそうとするかのように。その底に、大切な人が眠っているのを見つけ出そうとするかのように。
そして三上も、コーヒーカップを磨く手を休めない。
「この店に、彼が通っていたって知ったのはずっと後のこと。私の部屋に置き去りになっていた見覚えのないタンブラーに、この店のロゴが入ってて。調べたらこの店だったってわけ」
三上はレジ脇の、販売用のカップやタンブラー置き場にちらっと目を配る。こじんまりとしたスペースに、種類は少ないがオリジナル商品を置いているのだ。だが彼の意向とは相反し、ほとんどの客には見向きもされずほぼディスプレイと化していた。もうあれも、片付ける時なのかもしれない。
三上は装飾品と成り果てたタンブラーを一つ手に取り、布巾でホコリを丁寧に拭き取ると、伶美に渡した。
「よかったら、使って下さい」
「いいの?」
伶美は素直に喜んだ。
「彼に会えるまで通って下さるなら」
「……永遠に通えってことね」
伶美は寂しく微笑んだ。
「飽きるまで、通って下さい」
三上の言葉は店内のBGMに溶けて消えていく。
伶美はお礼を言い、タンブラーを受け取った。
*
「店長、何やってるんですか、もう!」
アルバイトの美菜が近づいてきて、呆れたように言った。
「あの人、今売り出し中の美人脚本家って評判の、室崎伶美ですよ」
「え?」
「まあ確かに顔はキレイですけどね。いわゆる劇団潰しってやつで」
「何だそれ?」
「よくいるでしょ、みんなのアイドル的存在の女の子が男だらけの集団に入ると、男達が気を引こうと争って。サークルとか劇団とかを丸ごと潰しちゃう女」
「ああ……」
「売れない劇団看板女優だった頃はヘタクソな芝居と女を武器に主催と関係を持って、俳優達ともあれやこれやで、劇団を何度もぶち壊したって噂ですよ。要するに最低の女ってこと」
「まさか……」
「さっきのも、どうせ作り話に決まってるし」
三上は呆然としている。
「もう、あんなバカ女にあげちゃうくらいなら、私に下さいよ」
「何かの間違いだよ、きっと」
「ホントですって。あの女、違うコーヒーショップに男連れでいるのを見たことありますから」
「え、そうなの」
「ほら、隣町の新しい店で『シアトルサイドカフェ』って」
「あー、あのおしゃれな」
「私最近よく行くんですけど、毎回違う男を連れてますから」
「そんな……」
「少なくとも四股してるし」
「ええ!」
「男好きもたいがいにしろって感じ」
「……そんな人には見えなかったけど」
「甘い! 女をなめちゃダメです。色仕掛けする女はテロリストですよ」
「テロ……」
「きっと出会った男は片っ端から誘ってるんだろうな」
「考えすぎだよ、それ」
「あ、でもさすがに店長は狙ってないと思いますから安心してください」
「そこ、安心するところかな……」
「それにしてもあのタンブラー、オシャレなのに全然売れないですね」
「そうだね」
「私にもください」
「いやそれは……」
「分かってます。得をするのはいつも美人だけですから」
美菜は立ち去り、空席のテーブルを拭き始めた。
三上は再びレジ脇に目線を配る。確かに、あのコーナーは寂しい。片付けるタイミングなのかもしれないな。
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*
三上はその店の外観をじっくりと観察した。
『シアトルサイドカフェ』は近年流行しているスタイルの、若者に大人気のカフェで、全国で数十店舗を展開している勢いのあるコーヒーショップだった。賑わう表通りに面したガラス窓に席が配置され、サラリーマンや学生らしき若者が専有しており、思い思いのひと時を過ごしている。
店内はシンプルでスタイリッシュな椅子とテーブルが並び、左側のカウンターの奥でスタッフが忙しそうにオーダーをこなしている。
三上も時おり、そんなスタイルの店を利用することがあったが、自分が経営しようとは思わなかった。別にこだわりがあるわけではないし、流行に乗っかるのをみっともないと思っているわけでもない。ただ、廃れるものは早晩廃れていく。このスタイルのカフェもやがては消えていくのでは、と薄々感じているだけだ。
三上は入口のドアに歩み寄った。
ふと、緊迫した小さな叫び声が、耳に飛び込んできた。
三上は店の左脇にある、狭い路地を覗き込んだ。
車が一台、通り抜けられる程度の道の奥の壁際で、男と女がもみ合っている。
男はサラリーマン風のスーツ姿で、腕を大きく振っているように見えたが、壁に押し付けられた女の方がぐらりと体を倒しているのに気づいて、三上はようやく女が張り倒されたところだったことに気づいた。
「このクソ女!」
怒りの込められた男の声が地面に吐き出され、乱暴な腕が、女の襟首を掴んで引き上げる。
女の顔がこちらを向いた。
――室崎伶美だ。
男は再び、腕を振りかぶって伶美の頬を張り倒した。
小さく叫ぶ伶美。
三上は慌てて周囲を見回す。平日の昼間だというのに人気がなく、協力者はいなさそうだ。
突然、三上は舗装された歩道の地面で、バタバタと足音を立てた。二人からは見えない位置に身を隠した状態で。
「おまわりさん、こっちです! ケンカです!」と大きめの声を放つ。さらに続いてバタバタと派手な足音を連続して。
奥の方から舌打ちをする声が聞こえ、逃げ去る足音がした。
たっぷり時間をとって、三上は路地を覗き込む。伶美が壁にもたれかかっていた。
駆け寄る三上。
「大丈夫ですか」
伶美は黙って地面を見つめていた。唇が切れて血が少し流れている。
三上はハンカチを差し出した。
伶美はわずかに唇を動かしただけだった。そして彼女は地面に目をやる。
三上も見る。
タンブラーが、転がっている。
「ごめんなさい。せっかく貰ったのに」
タンブラーの金属の表面が、へこんでいる。
「あいつをこれで」
伶美が手を大きく振ってみせる。
「で、やられちゃった」
三上はほっとして、思わず微笑んだ。
*
店内はほぼ満席だった。
運がよかったのか、ちょうど窓から離れた奥の壁に接した位置で、空いたばかりの二人席に着くことができた。三上は普通のブレンドを、伶美はラテをテーブルに置いている。
沈黙が流れていた。
三上は店内から表通りを眺め、世界がいつもと変わらず平穏に満ちていることを確認し、改めて店内の装飾を観察した。
必要最低限の装飾で機能的なカウンター内の配置、コンパクトにまとめられたコーヒー豆のディスプレイ、暗めに設定された照明、それらが渾然一体となり店の雰囲気を醸し出す。そしてもちろん利用客たちも、インテリアの一部なのだ。別段おしゃれな人々がいるというわけではなかったが、お客さんの思い思いの時間の過ごし方、リラックスした場の空気が、店全体の雰囲気に溶け込んでトータルでいい店だと錯覚させる力を備えているのだ。それが三上のコーヒーショップに対する考え方であり、彼の哲学でもある。
そう、いい店は、お客さんが作ってくれるのだ。
「あの」
伶美が口を開いた。
「あ、すみません。ついこの店が気になって」
三上は答えた。伶美はわずかに微笑む。
「……ライバルって、怖いですよね」
「はい?」
「ライバルでしょ、この店」
三上は自信を持って答える。「いいえ。全然」
「……私は怖い。すごく怖い」
「自分は自分。他人と比べてもしょうがないでしょう」
「ライバルに仕事を取られたらって思うと怖くて」
伶美はまだ唇の痛みに耐えているようで、苦い顔を崩さない。
「彼も同じ。私と同じでライバルをとても怖がってる。だから私たち、息が合うって思ってたんだけど。勘違いだったみたい」
「恋人ですか、ビジネスパートナーですか」
「どっちとも、言えないかな」
「いずれにしても信頼関係はなさそうですね」
「そんなもの……」伶美は馬鹿にしたような表情を浮かべた。「必要、ですか」
「そう思いたくなる時、ありますよね」
三上はちらっと彼女の唇を見た。
「私が闘っている世界は才能に恵まれた人ばかりで、自分の無能さをいやってほど思い知らされる。だから、とにかくがむしゃらにやる人だけが生き残る。できることは何でもやる人だけがね」
三上は深く頷く。
「それがどんなに非難されることでも。たとえ嘘をついてでも」
三上は黙って聞いている。
「だって生き残るためだし。間違っているとは思わない」
「はい」
「同意してくれてるの?」
「好きなように生きる、いいことです」
「違う。自分の好きなように生きたら生き残れない。……そんな世界があるんですよ。コーヒーショップの店長さんには分かんないかな」
伶美は明らかに苛立っている。
「私が生き残るためにやったことを知ったら、軽蔑すると思いますよ」伶美は視線を窓の方へやった。
「いいじゃないですか、軽蔑されても。私も日々、生き残りをかけてこんなおしゃれな店と闘ってますけど、正直もがき苦しんでるし」
「結果、店が潰れてしまってもいい?」
「はい」
三上の返答に、伶美は意外そうな表情をした。
「潰れたら、また立て直せばいい」
「その時には、立て直す気力すら残ってないかもね」
「あります。だって、好きに生きているから」
三上は楽しそうに答えた。
「私だけじゃないと思いますが、好きに生きてる人って、自分自身が思ってる以上に力、持ってます。なぜなのか。きっと好きなことをしているからですよ。だから強い。往生際が悪いとも言えるけど。あなただって、そうですよ。好きに生きれば強い。生き残れます」
「簡単に言わないでよ」
伶美はキッ、と三上を睨んだ。
伶美の視線が、三上を射抜くようにまっすぐ向けられている。
「私の生きてる世界はそんな甘いものじゃない。そんな、そんな」
伶美は声を出さずに、肩を震わせた。
三上は腰を浮かしかけて、迷い、椅子に座り直す。
「じゃあ賭けましょうか」
三上はジャケットのポケットから手帳を取り出し、ページを破いてペンを取り出すと何か書き始めた。
「うちの店が生き残るか、あなたが生き残れるか」
伶美は顔を上げた。
「賭けますか?」
「賭けなんかしても意味ないし」
「ですね。じゃあやめますか」
「くだらない。だったら言わないでよ」
「そう、賭けるなんてくだらない。確信を持って生き残ればいい。それだけの話です」
「……賭けます。どちらも生き残れない方に」
「私はどちらも生き残れる方に。もし私が勝ったら……」
「欲しいもの、何でもあげる」
三上は伶美を見つめた。
「私が勝ったら、あなたの軽蔑する過去を下さい」
「え……」
「あなたの軽蔑する話を、洗いざらい全部聞かせて下さい」
「私が勝ったら?」
「タンブラーをあげます。うちの、特製のやつを」
伶美は少しの間考えて、首を縦に振った。
三上は紙に書き込んだ。書き終わると紙を折りたたみ、伶美に渡す。
「持ってて下さい」
「捨てるわよ、負けそうになったら」
「覚えてるんで大丈夫です」
「私が逃げたら?」
「逃げない人ですよ、あなたは」
「自信家ね」
「絶対に勝負から逃げない人だから、賭けたんです」
「買いかぶり過ぎかもよ」
「女を見る目には自信があるんです」
「やっぱり自信家だ」
「それと、勝負強いんですよ、私は」
「負けても文句言わないでよ」
「もちろん」
三上は自信たっぷりに答えた。
彼の店は、新しい建物が続々と増えているこの街において、やや時代に取り残されたようなレンガ風のデザインを身にまとっていた。
かといってそれは、時代の変化を完全拒絶する頑固爺の面構えを思わせるほどでもなく、開発が遅れ気味の昭和遺物的な古さであって、没落貴族レベルの名店たちと比較されたらあっさり貫禄負けするだろう。要するに、彼の用意できた資金では格安の居抜物件しか借りることはできなかったのだ。
それでも不動産屋の担当者は渋い顔を崩さず、オーナーの不満と厳しい賃貸条件をくどくどと説明するほどには彼はケチンボに徹し、再三に渡り値切り交渉を続けてきた成果が実を結んで契約成立と相成った、というわけである。
肝心の内装は、おしゃれな最先端流行スタイルの店には及ばないが、それでも新装開店しただけはあり、傷ひとつないカウンターには珈琲マシンやディスプレイ用スタンド、デザート用の冷蔵ケース、その他見劣りしない程度には装備品をきちんと並べて開店を迎えることができた。
色々と問題はあるし客足もひっきりなしとはいかないが、彼のこの街への愛情と忠誠を示すためか、前の店のわりと近い立地にこだわり、無事に新店舗を構えるに至った。元々の数少ない常連客たちはめざとく彼がマシンを扱う姿を発見し、まるで何十年も前からここで営業していたかのように入店してきては挨拶を交わす、というセレモニーをたびたび行うことまでできた。
新店舗の開店から、二ヶ月が流れていた。
アルバイトの美菜は、昨年就職を無事に決めて、今年の春には店を卒業していった。だが社風がどうにも合わず、早速会社を辞めたいとの愚痴メールが何度か送られてきた。私が辞めたらまた雇って下さいね、と再雇用の懇願でメールはいつも締めくくられていたが、あいにく新人の由希ちゃんが優秀過ぎてね、ともったいぶった返事を繰り返すのが恒例となっていた。
実のところ、新人アルバイト・由希は、二ヶ月たってもテンパって行動が落ち着かない。マシンのスイッチを押し忘れたりオーダーを間違えたりレジのボタンを一個右に打つ癖ができてしまって金額がめちゃくちゃになることもしばしばだ。ミスをするたびに、彼はしかめっ面を出さないように努力しなければならなかった。いつもボーッとした表情で何を考えているかさっぱり分からず、彼女と話が合わないのは自分との世代間格差のせいか、それとも彼女の性格の問題なのかを今一つ探りかねている状態である。
そんな由希が、目を輝かせて三上に近寄ってきたのは、夏を目前に控えた、ごく普通の午後のことだ。
普段ボンヤリしている由希が、まるで彼を別人のごとく尊敬の眼差しで見つめてくる。
「店長、あの人と知り合いなんですか?」
三上は戸惑いを隠せない。
「ん、何のこと?」
「だって、さっき話してたじゃないですか!」
由希が、こっそりと指差した方向を見る。
カウンター席で、一人の女性がラテを飲んでいた。
「うん。常連さんだよ」
「え、でも私、初めて見ました」
「久しぶりだね、うちに来るのは」
「あの人、室崎伶美ですよね!」
「知ってるの?」
「有名じゃないですか! 『僕は彼女と賭けをした』って映画、見たことないんですか?」
「いや」
三上は、見たことはないが、内容は知っていると答えようかどうか迷った。
「一度も見たことないけど、知ってるよ」
「自信家ね、相変わらず」
カウンターの女性が振り向いて、そう言った。
「そうかな」
「ねえ、レジの横」
伶美がレジの方へ首を向ける。
「ああ」
三上は気づいた。
レジ脇には展示品コーナーはなく、ただA看板が立てかけられており、表の黒板にはおすすめメニューが手書きで記されているだけだ。
「どうしたの?」
「いらないかなと思って、作らなかった」
「タンブラーは?」
「そう来ると思って」
三上はカウンターの中でごそごそと探し物をし、包みを取り出した。
包み紙を開くと、中からタンブラーが現れた。
三上が掲げたタンブラーを見て、伶美は笑った。
「持ってくかい?」
彼女は笑い転げた。首を振り、
「もう許して。お願いだから」
そのタンブラーは、腹が大きくへこんでいた。