『鬼滅の刃』は、ここ30年ほどの間に日本エンタメが積み上げて来た娯楽のエッセンスを集約した、いわば「全部乗せ」の美学とも言える作品である。
何が面白いのか。
無粋と分かってはいるが、あえて解説を試みてみる。
私は原作をまだ3巻までしか読了していない。また、アニメ版も映画も視聴していない。そのため、以後登場する人物や主人公の変化・成長などに関して全く知らないことを前提に解説させていただく。ネタバレを遠ざけるためと解説範囲を絞るためあえて先を読まずに解説してみた。
最新巻では◯◯なのに、といった忠告は現時点では対処不能なのでご容赦いただきたい。
この考察の目的は、本作の面白さの言語化を試みることである。
まずざっと第1巻を通読した感想として、作者は歴代の名作を徹底的に研究し、それらの作品の魅力や面白さの要因を凝縮し徹底的に詰め込んだ形跡が見て取れる。
作者の涙ぐましいほどの研究と努力が詰め込まれた成果が紙面上に刻まれており、単なるブームとは対極にある成果物と気付き、今更ながら感銘を受けたので書いてみた次第だ。
【物語の背景】
主人公の敵として設定されている『鬼』は、過去の作品によく見られる吸血鬼の設定を導入し、人間を上回る強敵に仕立てている。人間の血を吸う、再生能力が超絶的に速い、非現実的戦闘行為を行うところは「ジョジョの奇妙な冒険」シリーズの第一部〜第二部を彷彿とさせる。
主人公が目的(本作では妹を人間に戻す)を果たすために修行及び戦闘を重ねる展開は、ジャンプの伝統芸であり、ワンピースやNARUTO、他無数のバトル系作品に倣っている。
もちろんバトルだけでは名作は生まれない。息注ぐ間も無く連続するピンチ、強敵の出現、戦いを通じて育まれる様々な感情、好敵手の存在、いくつものドラマが練り込まれて物語に厚みを持たせている。
ところで、主人公が次第に強くなり目的を果たすだけで名作は作れるだろうか。おそらく否だ。
室町時代の申楽師・世阿弥は、人に新鮮な印象を与えるためには、「新しきこと、珍しきこと、面白きこと」を挙げたという。クリエーターとして大勢の客に喜んでもらうために欠かせない要素だ。
【ストーリー展開】
主人公・炭治郎は第一巻で家族を失い、初っ端から敵討ちの目的を担わされている。人を引きつける物語は必ず主人公に目的が与えられる。それも捨てることのできない強烈な目的だ。この主人公の行動目的こそがストーリーを引っ張り観客を惹き付け続ける原動力になる。逆に言えば、これが失われた時に物語は終幕する。
最終回を迎える頃に、この目的は失われるだろう。ストーリーの原動力が強いほど、読者は惹き付けられる。主人公が常に過酷な運命を背負い込むのはそのためだ。そして炭治郎は十分に合格点を与えられている。
第3巻までの間に、炭治郎は鬼殺隊への入隊試験とも言える7日間を過ごし、その後新しい使命を与えられる。敵への復讐だけでは単純なバトルしか展開できないが、その前段階に修行やテスト、途中経過のイベントを盛り込むことでドラマに幅を持たせ、目的へ容易に到達できないように配慮してある。
長期連載作品は、できるだけ目的を完遂しないように、または目的を果たしてしまったら次の目的を即座に与えて読者を引っ張り続ける。あまり目的を遠くに置いてしまうと読者を引っ張る引力が失われるので、適度に近づけないといけない。
最も感銘を受けたシーン:鬼舞辻無惨の登場場面
冗長に過ぎた。そろそろ本作の核心の一つにふれる。
私がこの作品の1〜3巻までの間で最も秀逸な場面を一つ挙げるとしたら、間違いなく鬼舞辻無惨の登場シーンを挙げる。
理由は2つある。
この作品、主人公の敵である鬼のラスボスとも言える『鬼舞辻無惨』が、2巻で早々に登場する。最大の敵が序盤に登場することで、読者の好奇心をてきめんに刺激する。
ラスボスの登場は、タイミングが難しい。
早すぎるとラスボス感・新鮮味が失われ、途中で登場する格下ボスの存在感の方が悪目立ちしてしまう。逆に遅すぎると、読者の興味が失われて離れていってしまうだろう。後に待つのは、連載終了のお知らせだ。
本作は、ラスボスの登場をぎりぎりまで遅らせることで、鬼の頂点的存在・鬼舞辻無惨への妄想を、十分にふくらませる準備を読者に与えているのだ。それでいて、炭治郎との邂逅のシーンを前触れなく突然持ってくることで、スリリングな印象を与えることに成功している。
バトル系漫画に慣れきっている私達は、おそらくこの後主人公が成長して戦闘力を進化させ、鬼舞辻との戦いへ向かうのだろう、と漠然と想像している。そして下っ端が次々と登場する序盤戦は、想像の想定内で収まっている。ここまでは順当なストーリー展開だ。
ところが。
作者はここで裏切りを一つ仕掛ける。突然、ラスボスを主人公の眼前に登場させるのだ。
しかも、この最大の敵がほとんど自身の強さを表さない。キャラの個性は表現しても、強さを極力隠し通している。さらに、最大の弱みとも思われる自分の家族を、彼の敵(主人公)にさらけ出している。
ここが、巧妙なのだ。
1つ目の理由。
最大の敵のはずなのに、家族を持っている。
これは炭治郎にとって、理解できる価値観だ。主人公は家族を殺されているため、家族(禰豆子)を守ることが最大の目的と読者に説明済だ。ところが、鬼舞辻無惨が同じ価値観を共有していることが明示されてしまった。これは鬼舞辻にとっての弱みだが、炭治郎にとっても同様なのだ。
自分と同じ価値観を持つ相手を、果たして討ち取ることができるのか。ここに至るまでに、炭治郎は数々の優しさを見せている。鬼に対しても同情心を寄せ、相手を気遣うくらいだ。
同じく家族を大切にしている鬼舞辻を攻略するには、相手を気遣う感情を捨てる必要がある。それができるのか。
単純な強さ比べのバトル以外の要素を、導入しているのだ。
この時点では、鬼舞辻は炭治郎をその程度の実力だと見切っていると同時に、自分の真の実力を発揮しなくても倒せる程度の力しか炭治郎が持ち得ていない、と感じていたことを表す。
その後、炭治郎の耳飾りを見て、過去の時点の因縁をフラッシュバックさせているのである程度脅威に感じていたことは想像できる。これは伏線の挿入であろう(おそらく続巻にて登場していると予想)。
炭治郎と鬼舞辻は、対立する立場にありながら、どちらも家族を抱えつつ戦いに臨むという、弱みを内包した構造が設定されているのだ。主人公が弱みを抱えるのはよくある設定だが、同時に敵もまた同じ立場にある設定を用いているのだ。弱点ではなく、守るべき者がいる存在として。
大胆にも、この二人は似た者同士に見せているのだ。主人公に、敵は自分と共通項を持つ存在だと示しているのだ。
何と残酷で、鮮やかな対立だろうか。
2つ目の理由。
なぜこのタイミングで、鬼舞辻無惨は登場したのだろう?
それは、漫画を読む我々読者の予想を裏切り続けないといけないところに理由がある。
私達は膨大な作品を目にしてきたために、自覚できないほど目が肥えてしまっている。主人公が強大な敵と戦う物語は、飽きるほど味わってきている。もはや強い敵、修行、バトル、勝利のストーリーラインは食傷気味なのだ。
そして最大の敵の存在は、はじめから用意されているのもそれとなく気づいている。第2巻の中盤にて、すでに読者は鬼舞辻の存在を明かされている。いったんラスボスの存在を設定し明かしてしまえば、ラストバトルへ至る軌道が引かれてしまうため、先々の流れが大体読めてしまう。
これから先、弱い雑魚キャラから順番に登場するのは目に見えている。ピッチャーが次に投げるのはフォークだよ、と予告されているようなものだ。私もあなたも、メジャー級の読者である。いくら落差の大きいフォークボールであっても、来ると分かっている球は簡単に打ち返せる。
だからこそ、作者は意表をついて早々に登場させたのだ。しかも、まだ十分に炭治郎が油断している序盤戦において。ここでいきなり最大の敵が出現すれば、慣れきった読者の裏をかくことができる。
このシーンの鬼舞辻の設定の妙。また登場するタイミングを、主人公の成長過程のこの段階に持ってきたのはなかなか考えているな、と唸らされる。
この後、他の設定について書いたのだが、長くなるのでいったんここでおしまいにする。