最近の日本のドラマはバーチャル・ドキュメンタリーになっていないか?

VRゴーグルをかけて自転車に乗る女性

ドラマは基本的にフィクションです。架空のお話であり、事実ではありません。
なので、それを割り切って楽しめる人だけが見るべきです。

ところが中にはドラマに正確性を求める人がいます。

もちろん史実と全然違うデタラメな設定は興ざめします。
設定や基礎知識が正確なのはマストです。

その上で、何もかも正確であることが必須であり、現実と違う箇所は排除すべきという考えを持った人がいるのも事実です。

しかし、その考え方は捨てたほうがいい。
なぜかと言うと、正確性に囚われてしまうと飛躍したシーンがかけなくなってしまうからです。

飛躍は、ドラマになくてはならない重大要素なのですから。

そういう正確性を最優先に考えて作られたドラマや映画を、あえて

バーチャル・ドキュメンタリー

と呼んでみます。
(勝手に作った造語です)

ええ、もちろん単なる皮肉です(笑)。

つまり、仮想記録映像作品、というわけです。

この考えは、ドラマが現実に近いほど面白いという価値観から来ているように思えます。そしてそれは本当でしょうか。

リアリティはドラマに必要か?

シナリオ・センターの創始者、新井一氏の著書を色々読んだのですが、一つ気になったことがあります。

彼はリアリティという言葉を全くと言っていいほど使っていないのです。

著作や雑誌のインタビュー記事、その他様々な彼の発言を調べてみましたが、とうとう見つけることはできませんでした。
ただの偶然でしょうか。

よくドラマの感想に、「このドラマにはリアリティがない」という言い方を聞きますよね。

リアリティって何でしょうか。
より事実に近い、現実に近い、と言った意味でしょうか。

リアルなストーリーと言ったら、それは現実に起こり得そうだという意味に取っても
よさそうです。

逆にリアリティがない、と言ったら現実にはありえない話ということですね。

しかし、本来物語とは現実ではないのが前提です。
現実にある話なら、別にわざわざ物語にする必要はないですから。

いや、してもいいですが、きっとありふれていてつまらないストーリーではないかと。

もちろん現実にあった出来事で面白い話はいくらでもあります。
でもそれは、ドラマとは呼びません。ただの「実際にあった話」というだけのこと。

それはストーリーではなくドキュメンタリーです。

しかし観客や視聴者を騙った評論家は、なぜかリアリティを求めます。
リアリティがないものはストーリーとして成立しない、だからダメだと。
(面白いか面白くないかではなくダメと言います。変ですね)

なぜそんなにリアリティを求めるのでしょうか?

きっとその人は、ストーリーに共感できなかったのでしょう。

面白さとは、主人公に共感できるか否かにかかっている

共感とは、物語に集中して主人公の身に自分を重ねている状態のことです。
自分がもしこの主人公だったらどうするか。自分の身に起こったかのように没入している状態のことです。

そこへ、せっかく集中していたのに現実にはありえない展開になったとか、設定に無理があったとかの理由で、共感が失われてしまうわけです。

共感できなくなった原因は人それぞれです。
一例を上げると、物理学的にありえない演出がされたなど。

たとえば、妻に殴られた夫が空に吹っ飛んでしまいお星様になってキラリと光ったとか。
ギャグマンガならあっても問題ないですが、現実のドラマでそれをやってもありえないだろ、となります。
実際に空へ吹っ飛ぶくらいの衝撃を与えたら人間の肉体なんてぐしゃぐしゃに砕けて即死するだろとか。

どこで共感が途切れるかはその人の感覚によります。

主人公の気持ちが理解できなくなったらそこでおしまい。
設定が非現実的ならおしまい。
時代考証がいい加減だったらおしまい。

人それぞれですね。

余談ですが、時代劇を見ると、酒場が登場するシーンでテーブルと椅子が並ぶ店内が映し出されることがあります。

でも江戸時代にはテーブルも椅子もありません。
椅子文化が日本に輸入されたのは明治時代以降ですからね。

でも、時代劇にテーブルや椅子が出てきても、
「江戸時代に椅子なんか使ってなかっただろう、リアリティがない!」
と文句を言って見るのをやめる人はたぶんいないでしょう。

なぜなら、リアリティのありなしは、映った道具にあるわけではなく人物の感情の中にあるからです。

つまりリアリティとは、その人が共感し続けられる間維持されている状態のことです。

どんなに適当な設定でもどんなに偶然の出会いが起きても、共感出来る限りそれはリアルなのです。
だから、リアリティがないと感じたら、それは共感できなくなったという意味なのです。

ただし、このリアリティという言葉を文字通り現実性と捉えて判断する人もいます。

面白かったがリアリティがなかった、と感想です。
面白さは理解できだけど無理があったという場合がそれに当たります。

これは、どういうことか。

共感はできたが、設定上の矛盾に気づいていたのですね。
両方を天秤にかけて、共感の方が強かったのでしょう。

ただリアリティを欲しがっているだけなら無視してもよいですが、それが面白さの唯一の解答だと勘違いしていたら、とても不幸です。

その手の人たちは、フィクションを事実に基づいて正確にしたいのかもしれないけど。
それじゃ、ただのドキュメンタリーに過ぎないんですよね。

フィクションを見せる場で、事実とかけ離れた部分を容認できないなら、もはやドキュメンタリー以外で満足はできないでしょう。

しかし創作者は何かとリアリティの呪縛に囚われてしまいがちなのも、事実です。

外野からワイワイ言われるのは無視するとして、我々創作者がこの正確性の罠に陥りがちなのは気を付けないといけません。

なぜなら、面白さは正確さの中には潜んでいないからです。

この、やたらと正確性にこだわる傾向は、残念ながらプロの方でも見られます。

作者がフィクションを書いているつもりでも、結果としてドキュメンタリーに近くなっている作品。

極めてドキュメンタリーに近い、でも正確にはドキュメンタリーではない状態です。

ではなぜ、そこまでリアリティにこだわるのか。
その理由は、面白さの評価軸を見失っているからだと思います。

自分自身で、何が面白いのか分からなくなっている。もし自分がやたらとリアリティにこだわっていたら、ちょっと考えてみて下さい。

何が、どうなっていたら面白いのか。
これが意外と難しいんです。

最後にスティーブ・ジョブズの言葉を。

人はそれを見せられるまで、本当に欲しいものが分からないんだ。

おっと、忘れてた。
ワンモアシング。

リアリティが欲しければ、ドキュメンタリーを見ていろ。な?

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