最近、薬物がらみで逮捕される芸能人が増えましたよね。朝日新聞によると、昨年2019年だけで10名も逮捕されているとか。
参考 芸能界止まらぬ薬物禍…少ない接触機会で大量買い「売人にとって上客」Sponichi Annexそして残念なことに、歌手の槇原敬之容疑者(50)が2020年2月13日に覚せい剤取締法違反などの疑いで逮捕されました……。
止まらない芸能界の薬物汚染、どうすれば……というのは、本記事のメインテーマではありません。
それはそれとして、私達としては、逮捕された芸能人の活動がストップしてしまうことにより、作品を楽しむ機会を奪われてしまうことが心配です。
特に、俳優が逮捕されると出演作品が放送中止になったり、最悪企画自体が消滅し作品がお蔵入りしてしまうことですね。
当の俳優だけでなく出演者全員が見られなくなるし、作品自体がお蔵入りすることも多く、その影響は決して少なくありません。
時には数億円をかけた作品が永久に凍結してしまうため、スポンサーは頭を抱えていることでしょう。
それは仕方のないことではあります。
いっとき薬物関係で逮捕のニュースが世間を賑わせても、数年たつと何事もなかったかのように当の芸能人は芸能界へ復帰できるのはご存知の通りです。
ただ、気になることが一つ。
まるで何事もなかったかのように当人が復活してしまうと、あの時見られなかった作品はどうしてくれるんだ、という気持ちになります。
反省さえすれば許されるなら、もっと短期間で反省してすぐ復活してほしいとさえ思います。
作品を、芸能人への戒めや悪影響回避のために使い捨てにしないでほしいのですよね。
と、作品を作る立場の人にとっては大きな問題ではないかと思い、書いてみました。
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社会的影響力のある人物の不祥事だから、露出を消すという観点
薬物のみならず不祥事を起こした芸能人が出演しているテレビ番組、ドラマ、映画、音楽CD、コンサートなど出演している作品がいずれも放送中止となります。
何もしないのは確かに不自然ですが、かといって何もかも中止にして目に触れないようにしてしまうのは、当然の処置なのでしょうか。
ドラマの主演を務めていた俳優が薬物所持などで逮捕されたとします。
ドラマは放送中止になりますが、その作品に関わっていた人たち全員が影響を受けます。一人の不祥事のために、ドラマが全話見ることができなくなります。連ドラによくあることですね。ドラマもスポンサーが数社ついているでしょうが、企業のマイナスイメージを回避するために放送を中止せざるを得なくなります。
連ドラの場合、初回(第一話)の放送前なら、代役を立てて撮影をし直せば何とかなります。間に合えば、ですが。
放送がある程度進んでいた途中での不祥事なら、別の俳優に差し替えて撮影するという窮余の策が取られることが多いですね。
たった一人の不祥事に多大な被害を被るわけですから当然の処置とはいえ、活動停止をよしとする方々はどんな方なのでしょうか。
我々視聴者側の立場からすると、変な話、別に逮捕された芸能人の作品を見ていても「不快な気分」になることはあるかもしれませんが、不快なら見なければいいのですから、何も放送中止にしなくてもいいのではとも思います。
子供への教育的観点から見えないようにしてほしい、なら何となく理解できます。知名度の高い芸能人が、犯罪を犯しているのに普通に登場したら、(薬物なんて)大して悪いことではないのでは、と子供が錯覚するかもしれません。
大人からすると、悪いイメージにまみれた当人を、普通にテレビで見るのが「気分が悪く」なるからでしょうか。
芸能人と放送メディアは、持ちつ持たれつの関係にあることで利益を得ている
これら一連の動向には、一つの共通するキーワードがあります。
「持ちつ持たれつ」の関係にあるということです。
芸能人(芸能界)とマスメディアは、お互いを利用しあって繁栄しています。
芸能界は、タレントを売り出して出演させてもらう。メディアは知名度を利用してスポンサーを獲得する。
どちらも相手があってこその商売です。お互いに依存関係にあるのですね。
だから、芸能人が不祥事を起こした場合は、それも利用します。
俳優が逮捕されたらそれを報道し、ネタにする。
話題を広めてバズらせる。もちろん悪い方向のバズですが。
そして俳優は反省と自粛を明言する。
しばらく姿を消す。
ほとぼりが冷めた頃、反省の言葉と共に復帰する。当人が更生すれば、元通りに活動できるようになる。
もうすっかり反省しました、と告知して、真面目に仕事に取り組むことを約束し、復帰する。
この一連のサイクルをきちんと回すことで、両者に利益がもたらされるのですね。
途中途中の話題作りと流れの進行に、世間という名の影響を受ける側が介在します。それが私達、視聴者です。
世間は、悪いイメージに翻弄され感情を害し、感情が収まった頃に犯罪者を許す。
一連の「不祥事→復帰サイクル」に乗っかってくるくる回っているイメージです。
ちょうど、ハムスターが回転する車輪の内側で走っているように。
私達ハムスターは、怒りを呼び起こさせられ、勝手に走らされて、疲れて、また元気になれば以前のことはすっかり忘れて、元気に走り始める。
ただそれだけのことです。
その合間に、芸能人の不祥事が挟まってくる。
ハムスターが走らされて、回転する車輪の勢いで発電してお金を儲けているのが、芸能界とメディアということですね。
我々視聴者は間接的に、彼らを儲けさせてあげているのです。
でも、それでもいいと思います。そのおかげで多額の予算をかけた素晴らしい作品が楽しめるなら、結構なことだと思います。
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正直なところ、芸能人が犯罪を犯したからと言って、私達が直接の被害者になることは極めてまれですし、自分の生活とは無縁です。芸能人が捕まろうが何をしようが、ほとんどの場合無関係なのです。
それなのに、いちいち感情を乱されているとしたら、それは私達が何らかの形で「感情的に依存」しているからでしょう。
頼っていると言ったらおおげさですが、事実何らかの形で有名人に「頼っている」人々は、不祥事に対し、如実に反応します。あんなに信頼していたのに裏切られた、と言うわけですね。(いつ信頼してくれと頼んだのでしょうか、芸能人が?)
ともかく、芸能人は常に注目される存在ですから、その注目こそが「メシのタネ」なのです。これを利用することが、当人(と事務所)にとってもメディア側にとっても利益になるのですから、やらない理由はありませんよね。
もちろん、できれば真面目に更生してもらいたいですが。
健全に芸能活動を続けてくれること以上のメリットはありませんから。
なぜお蔵入り作品は放送できないのか
逮捕された芸能人の出演作を、完全に普段どおりに放送するのは無理としても、すでに撮影や収録が済んでいる作品をお蔵入りさせるほど重大な問題でしょうか。
前述のように、一秒たりともその逮捕者の姿を見たくない、との心理的嫌悪感を抱く人からはそう思われても仕方ないとも言えます。
しかし、ドラマ等に出演しているのはたった一人の逮捕者だけではありません。
主演俳優以外にも、ドラマにはたくさんの脇役俳優が出演しています。
また映像作品は役者だけではなく、大道具小道具・美術と言った裏方をはじめ大勢のスタッフの協力があって映像が制作されています。
その全員の集結した完成物を抹消することが、果たして正解なのでしょうか。
また、お蔵入りした作品は永久に日の目を見ることがない、という処置を正解としていいのでしょうか。
当の芸能人は復帰できても、作品はもう二度と放送される機会は与えられないのです。
これは明らかに、作品より芸能人の進退に重きを置いていて、作品はその従属物であるという認識のあらわれです。
単にその時だけ見せなければいい(そしてその作品を見る機会は永久にやってこない)、というやり方に違和感を感じないでしょうか。
「作品に対するリスペクト」が欠けてはいないか
話を戻します。
俳優が不祥事によって出演ドラマが放送中止になる。それにより多大な被害が出るわけですが、それは果たして正しいことなのか。
結局視聴者の感情に全てが振り回されている現状を、そのままでよいのか、がテーマです。
「三方良し」、という言葉があります。
脚本を書く際の技術的心がまえとして言い伝えられている言葉です。
三方とは、お客様、制作者(役者や監督・脚本家等)、スポンサーのこと。
三方全てにとってウィンウィンの関係を言います。
お客様だけが満足しても意味がないし、製作者の都合だけでも成立しない、スポンサーの利益だけ追求しても駄目、ということ。
この三方の立場を考えながら作っていくのが最も喜ばれる関係だ、というわけです。
芸能人不祥事の際の一連の流れは、この三方を満足させる形に落ち着いています。ひとまず三方良しが成立していると言えます。
ただし、重要な要素が欠けています。
それは、
作品に対するリスペクト
です。
製作者を始めスポンサーも含め、最高の作品を作ろうと努力をしています。その結果、お客様も喜ばせることができるのです。
この、三方の一角である「お客様」が、崩れかけているのでは、と思うのです。
芸能人は犯罪を犯したら作品全てをお蔵入りすべきだ、と考える視聴者はいるでしょう。その一方で、当事者の芸能人に興味がなく、作品を楽しめれば別に構わないという人もいるはずです。
放送局は、その人の意見は退け、「うるさい」一部の視聴者にへつらって中止を決定しています。
うるさい声を上げる人の言うことに従い、声を出さない冷静な人の意見は脇にのけておく。
一見、両者が満足しているかのように見えます。
しかし、声を出さない一部の人は、確実に不満を持っているはずです。
作品自体に罪はない、と。
クリエイターたちが精魂込めて作り上げた作品が、本来の評価とは別の理由で世の中から抹殺されている現実を、そのままにしておいてよいのか。
本来の、作品のクオリティが正当に評価されるような方法が、今こそ求められているのではないでしょうか。