最近話題になりヒットを飛ばしている映画やアニメに、脚本制作を複数で担当する作品が増えてきました。
最近話題になった、Netflixの「全裸監督」。またピクサーのアニメ作品。
本来、脚本は一人が担当し最後まで一人で書き続けるのが主流でした。
しかし昨今、複数のスタッフが脚本担当する形式の作品が、ヒット作を飛ばしています。
その質の高さから、脚本は一人に任せるより複数の担当者がアイデアを出し合った方がいい作品が作れるのでは、という意見もちらほら見受けられます。
確かに、一人より二人、二人より三人の方がいい案が出てきそうですし、より客観的な目線で制作ができて偏った考えに囚われずに済みそうです。
では、今後の映像作品は全てチーム制で作る方が本当に優れた作品を作れるのでしょうか。
メリットばかりと言えるのでしょうか。
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チーム制で脚本を書くメリットは、アイデアが豊富に生み出せること
複数の人が集まって一本の脚本を書くということは、要するにチームで担当するということですね。
チーム制が有利な点を考えてみました。
大人数ならたくさんアイデアが出る
三人寄れば文殊の知恵、という言葉があるように、一人で行うより複数で行う方が、数的な意味で有利なのは言われなくても理解できます。
一人で穴を掘るより三人で掘った方が、一人で片付けするより三人でやった方が、一人殺すも三人殺すも一緒…おっと失礼。
一人でリアカーを引っ張るより三人の方が…ってどんな時代だ。
また、一人で脚本を書くと、自分の好みをより反映させたくなります。
でも複数でアイデアを出し合うと、こだわりが貫きにくいため、より客観的な視点を持てるようになります。
一例を上げましょう。
一人の脚本家が、主人公の職業をどうしても医者で行きたいと考えました。
名医の物語を書きたいと。
脚本家は必死で頑張って医者の設定を貫こうとします。
チーム制の場合。
ある時ふと、「主人公は医者より看護師の方が面白いのではないか?」 と誰かが発言しました。
ミーティングを重ねるうちに、看護師の方が絶対に面白いぞ! とみんなが賛同するようになりました。
そこに個人のこだわりはあまり通用しなくなります。
より面白くするにはどうすればいいか、が議論の中心になるからです。複数の意見を合わせれば、より客観的な視点を持てるということ。
一方、一人で書くと、どうしても個人のこだわりを優先したくなるもの。
俺はどうしても医者の物語が書きたい。医者の話だからこそモチベーションが上がるんだ、というわけです。
そのこだわりを捨てれば、もっと面白くなるかもしれません。でも自分のアイデアにこだわるあまり、視野が狭くなってしまうのです。
どちらがいいかは完成してみなければ分かりませんが、より多様なアイデアが出るのはチーム制でしょうね。
個人のコンディションや都合で制作中断することがほぼない
一人で脚本を書いていて体調を崩したら、代わりを務める人がいません。
その時点で代役を立てるか、あるいは代わりがいなければ完成が延期されることもありえます。
多額の予算をかけたプロジェクトなら、中断や延期するより代役を立てるかもしれません。
でも、どうしてもこの人の脚本じゃないと成立しない企画だった場合、致命的です。
しかしチーム制なら、誰か一人が倒れても他のメンバーで作業を続けることができます。
他にも、個人的な理由でいったん作業を中断せざるを得ないケースがあるかもしれません。
それも、チーム制なら回避できる可能性が高いでしょう。
では、チーム制で制作することに問題はないのでしょうか。
チーム制のデメリットは複数人の意見をまとめるのが困難なこと
そりゃ、アイデアを考える人が多ければ多いほどいい案が出そうなのは、素人でも分かる。
しかし、ことはそう簡単に運ぶものでしょうか。
チームをまとめる強いリーダーが必要
複数の人が関わって創作をすると、必ずと言っていいほど意見の相違が発生するものです。
数学のように定まった正解のない創作の世界は、価値観と価値観のぶつかり合いです。
脚本執筆は、絶対的にこれが正しいというものはありません。
ただ代わりに、先人達の集合知によって築かれた、比較的ゆるい法則に支配されています。
個人の経験や感覚を頼りに文字を積み重ねるため、作家の個性が大きな要素を占めるのです。
結果として、チーム内で意見を統一するのに大きな努力が必要です。
バラついた感覚をまとめ上げるのは無論、チーフライターであり総監督のような存在。
元ピクサーのジョン・ラセターのようなカリスマ的存在であればこそ、個性的なメンバーをきっちり一つの方向にまとめてプロジェクトを推し進めることが可能なのです。
特に、才能豊かな人達が参加していればいるほど、並みのプロデューサーでは到底まとめるのが困難でしょうね。
ちぐはぐなまま進行して体裁だけは整った、しかし中身が空中分解寸前の醜い愚作だけが後に残る、そんな悲惨な結果を招かないとも限りません。
そんな優秀な人物が中心に立って引っ張ってくれればよいのですが……。
ギャラは分配するので一人あたりの報酬が上がらず、豊富な才能が集まらない
本来一人で携わる脚本を複数で担当するということは、報酬も独り占めはできないわけで、どう分配するかが問題になります。
元々脚本家として活動していた人であれば、自分の働いた分はきっちり貰いたいもの。
チームの中で稼働するなら、自分の貢献度がどのくらいあるかは非常に重要です。なぜなら、多大な貢献をしたらその分報酬も欲しいはずで、当然の権利として要求します。
しかしここでプロデューサーが報酬の分配を適切に行わない場合、不服とする脚本家はおそらくチームから降りてしまうでしょう。
創作というものは、複数で行う場合誰がどのくらい頑張ったかが非常に分かりにくい。もちろん全員が気の合う人達であればそんな文句は言わないかもしれません。
しかし、プロの創作は必ずしも気の合う人同士で行う訳ではありません。
プロである以上、報酬はモチベーションの源泉であり活力の元です。ギャラがもらえるからこそ頑張る部分があります。
特に自分の意向が100パーセント通らない局面があるもので、その時自分を奮起させるのは報酬だだと思います。
不服な時もギャラを奮発してもらえるからこそ意見を曲げて作品作りに協力できるもの。
チーム制でやるなら、一人より多くの予算を脚本にかけるかもしれません。
しかしおそらく一番たくさんもらえるのはチーフライターでしょう。そして他の人は大勢の中の一人に過ぎない。
どれだけの報酬が彼らに分配されるのか。そう考えると、積極的に創作に打ち込めるのか、正直疑問なんですよ。
ここで評価されれば次の仕事につながるかもしれません。
でも次回作もまた、サポートスタッフしかできないとしたら。
なんとなく、漫画家のアシスタント的な存在に近い待遇になりそうです。
だとしたら、やりがい搾取の被害者になってしまうのでは? という懸念を感じます。
本当に優秀な人材が今後も集まるのか、といった問題も出てきます。
漫画家と違って、デビューの場が遥かに狭められているのが脚本家の現状です。
また、いくら頑張っても脚本の評価をもらえるのは実質チーフだけ。
下っ端のライターたちは、ほぼ無名のサポートスタッフに過ぎなくなります。
業界の裾野が広がる未来が見えてこないように思えるのですが。
テーマを乗せるのが難しいため物語がテンプレ化し、見終わるとすぐ忘れられる作品になってしまう
あまり重要視されていませんが、作品にはテーマが必要です。
テーマとは、作品を通して作者が最も伝えたいことです。
物語には目立たないように作者からのメッセージが込められています。
それはあからさまに表現すると説教くさくなり、観客にとっては「うるさく」感じられてしまうため、こっそり封じ込めます。
例えば反戦をテーマに選んだとします。
作中で主人公の少年が、
「僕は戦争なんて反対だ!」
なんて叫ぶシーンがあったらどう感じますか?
それは当たり前だし真っ当な考え方だし正しいですよね。
でもいちいち戦争反対なんて言われたら、いくら正しい意見だとしても、ちょっとウザいと思いませんか?
お前に言われなくても分かってるよ、と。
人間とはそういうものなのです。
ところが爆撃を受けた焼け野原で、一人の男の子が背中に実の妹の遺体を背負って佇んでいたら。
一言も「戦争反対」なんて口に出さなくても、その姿を見れば戦争の残酷さを理解できます。
セリフなしでも、強烈なメッセージを作品に込めることができるのです。
どれほど正しい意見でも、真正面から言われると素直に聞けなくなる。
だから、伝えたいことはコッソリ含ませるんです。
作品の内側に潜ませることで、真正面から言われるより素直に感じさせることができるのです。
☓ ☓ ☓
さて、チーム制で制作を行う際。
このテーマを伝える作業をどこで、誰が行うか。これは作品の骨格を成す部分ですので、絶対に欠かせない作業です。
実は、テーマなどなくてもストーリーは作ることができます。
ただひたすらに面白いストーリーを作ることは可能です。
ただし、テーマがないということは伝えたいこともないため、ただ面白いだけでおしまい。
物語が終わるとすぐ内容を忘れてしまいます。
「あー、面白かった」で終わり。
何も残りません。
たとえばアクション映画や冒険活劇と呼ばれる作品です。
スピルバーグ監督作品の「インディジョーンズ・シリーズ」など。
とても面白いですが、逆に言うと、面白いだけ。娯楽としてはそれで十分なのかもしれません。
ただ、そこに感動はほとんど、ない。ただ観客の興味を引きつけておけばいい。
まさに活劇なのです。
現在のドラマに限ったことではありませんが、ただ興味を引きつけられるだけの物語は、先の展開が簡単に推測できて予定調和で終わる作りになっています。
見慣れないうちは楽しめますが、似たような種類の作品を何度も繰り返し見ていると飽きて来ます。当然ですね。
だから、人はそれ以上のものを求めるようになる。
それ以上のものとは、忘れないほど深く心に刻まれる何か、です。
何か、は人によって違いますが、新しい発見であったり、忘れ得ぬ感情であったりします。
自分の価値観を揺るがされたり、今まで信じていたことが間違いだったと気付かされたり。
あるいは今まで疑っていたことを信じられるようになるとか。
いずれにしても、何か衝撃的な感覚を得た時に、人は深く記憶に刻まれるのでしょう。
それを総体して、感動した、と言うのです。
テーマのない物語は、感動がない。
感動がない物語は、すぐに忘れてしまう。
せっかく頑張って作ったのに、見終わったらすぐ忘れ去られる。
そんな作品になってもいいですか?
稼げれば何でもいいよ、という人はそれでもかまいません。
しかし、少しでも人々の記憶に残る作品を目指しているなら。
ただ面白いだけの作品にならないよう、創作者は念入りに制作しなければならないのです。
強烈なリーダーシップを持ったチーフが、これだけは絶対に伝えたい、という強い意思をチーム全員に共有し、それを受けた全員が足並みをそろえて尽力する。
リーダーの手腕が試されます。
リーダーシップの失敗は、作品の失敗に直結しているのです。
結論:一人制でもチーム制でも目的は同じ。ただいい作品を作るだけ
一人で脚本を書こうがチームで書こうが、面白ければいいのです。
ただチーム制は、チーフがリーダーシップを発揮して、一つの方向に正しく進んでいるか。
制作過程を完璧にコントロールできているかが問題になります。
それさえクリアできていれば、どちらであろうと大した変わりはないと思います。
一人で脚本を担当していても、どうせプロデューサーや監督と協議しなければなりません。
そこで意見が合わなければ、衝突するのは間違いないわけで。
どちらにしても、自分の意見が100%通らないのが脚本家の宿命かと思われます(笑)。
傑作が生まれるか駄作になるか。
一人で作るかみんなで作るかなんて、大した問題じゃない。
それが僕の結論です。